【鍵/谷崎潤一郎】評者:山下菜々  (共立女子大学文芸学部文芸学科4年)

 

この作品は、相手に読まれることを前提にして書いた日記を、互いに盗み読みする夫婦の愛欲物語である。夫と妻二人の日記が交互に綴られていく形で話が進む。密やかで艶やかな文章表現とは直接結び付かないような、異常で過剰な内容に、読者である私自身も夫婦二人の日記を盗み読みしているような気分にさせられ、ゾクゾクしながらその背徳感を楽しんだ。

 この作品の読みどころは、なんといっても夫婦の巧妙な心理戦であると思う。互いの真相や真意がわからない中で、暗中模索する二人の葛藤や駆け引きが、こんなにも複雑な心理戦は初めてみたと思うほどの衝撃だった。

 登場人物は、五〇半ばの夫と、四〇半ばの妻、嫁入り前の娘、それから木村という男性。妻は性欲が強く、夫は妻との行為を喜んではいるが、妻の要求に十分にこたえることができなくなっている。木村を娘の結婚相手と考えながらも、妻との間を疑い嫉妬することで、行為を高めようと考える。

 一般的な常識からはかれば、夫婦関係も親子関係も、この家族の形は全く理解が出来ない。しかし人間関係の中でも最も複雑なのが、家族であると私は思っている。

 この家族の形は異常過ぎると思いつつ、同時にある種の愛情の示し方なのかもしれない、と思いながら読み進めたが、ラストのどんでん返しにはゾッとさせられた。次にはこの起承転の結末がこれなのか、と笑いさえ込み上げた。

 夫の病死後、やりがいを失って日記を休んでいた妻だが、経過をまとめるために、夫には読まれぬ妻の日記が綴られることになる。ここに至り、妻が衝撃的な計画を企てていたことがわかる。

 私はこの妻の悪女ぶりがたまらなく好きだ。悪女に翻弄され壊れていく、夫の姿も滑稽でたまらなく面白い。妻は人間の壊し方を知っているのではないか、と考えると鳥肌が立つが、同時に妻が綴る日記の文面から滲み出る、上品さと艶やかさに惹かれてしまう。

 初老を迎え、体力が落ちながら性欲をコントロールできない夫が、蠱惑的な妻の思惑にまんまと嵌り翻弄されていく姿が、哀れで惨めな気もしたが、その反面、夫は幸せだったのではないかとも感じた。妻に翻弄されること自体が本望であり、その行為が夫にとっての快感であり、最後まで自分自身の欲望に忠実に生き、満たされていたのかもしれない。夫の日記を見ていると、このような結末であっても夫は幸せだったのかもしれないとすら思えてきた。

 谷崎潤一郎の美しい日本語世界と狂気的なストーリー、最初はこのアンバランスさに戸惑いを感じたが、読み進めれば進めるほど心地よくなっていった。自分にはない新たな感覚を求める人、美しい文学世界に溺れたい人には、是非とも読んでいただきたい一冊。この本を読めば、谷崎潤一郎文学の美しくも狂気的な世界観にハマることは間違いないだろう。

この記事を書いた人

★やました・なな=共立女子大学文芸学部文芸学科4年。現在は日本史を研究するゼミに所属し、卒業論文では、ドラマや映画などのメディア作品を題材に石田三成から表象論を論じようと研究を進めています。

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