【魔法にかかった男/ディーノ・ブッツァーティ】評者:齋藤銀河  ( 共立女子大学家政学部3年)

夢は人の持つ無意識のイメージの現れなのだという。どこか突拍子のない展開でありながらも、納得してしまう。時にはそれに深い意味を見出すこともある。この二〇の作品を収めた短編集はまさに夢そのもののような本だと感じた。

 表題作の「魔法にかかった男」は、成功し、妻子もあるにもかかわらず、どこか満たされないでいると感じているジュゼッペ・ガスパリという男が主人公である。ガスパリは休暇中に訪れた山間部で、ふとした拍子に子ども時代のみずみずしい感性を取り戻し、そこで出会った子どもたちとごっこ遊びに興じる。それを通して彼は自らの空想の世界に没入していき、やがて想像の敵やその攻撃は本物となり、彼を死に至らしめるまでになってしまう。しかし彼は、忘れていた本当の楽しさを思い出した、真に満たされた人として死を迎える。

 なぜ、ガスパリがこのような感性を取り戻すことができたのか、詳しい説明は一つもなされず、まさに魔法にかけられたとしか思えない。しかし、読み手はそれに対して違和感を覚えることなく、そういうものだと読み進めることができる。むしろ、その世界観の曖昧さによって読み手はガスパリの心情の変化や、彼が取り戻した子どもらしさの神秘性に引き付けられる。そして、ガスパリに共感しうらやましく思う自分もまた、ガスパリのように満たされない人になっていたのだと感じ、愕然とする。

 人は死んだらどこへ行くのかという素朴な疑問、未知のものに対して感じる漠然とした不安、自然に対して感じる美しさや畏敬の念、子どもだからこその感性や空想力は大人になるにつれてだんだんと奥の方へ押し込められていく。しかし、なくなってしまったわけではない。そういう無意識にしまい込まれていたものが、まるで物語の中で追体験するかのように鮮明に思い出され、欠けていた部分が満たされるような気持ちになる。

 しかし、私たちが忘れているのはそういった美しい感情ばかりというわけではない。ローマでの巡礼で罪を清められることを期待し、様々な悪徳を積んできた神学士がついには烏にされてしまう「ヴァチカンの鳥」、ある弁護士が一匹のハリネズミを遊びで撃ったことによりその一家が検事の家まで復讐に訪れる「巨きくなるハリネズミ」などは、人間が持つ利己的で残酷な面をありありと描き出す。そういった自身にとって都合の悪い事実から目を背け続けることが一体どのような恐ろしいことを引き起こすのか、読み手はこれらの物語に隠された警告を感じ取らないわけにはいかない。

 この本は、リアリティばかりが重視される現代において、むしろ幻想的で曖昧な世界観によって、普段は意識することのない、人間らしい感情の尊さ、社会の不条理さ、人間の残酷さなどを読み手に鮮烈なイメージを持って示してくれる。普段から目に見えるものばかり信じ、そのためいわれようのない不安や空虚さを感じる現代社会の私たちに必要なのは無意識の奥底にある普遍的な「人間らしさ」を今一度見つめなおすことなのではないだろうか。この本はそれを暗に読者に問いかけているような気がした。(長野徹訳)

この記事を書いた人

★さいとう・ぎんが=共立女子大学家政学部3年。現在はSFや自然科学などのジャンルを好んで読んでいます。読書をすることで自分とかかわりがない分野の知識にも触れられるのが楽しいです。

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