必読、注目の時代小説&ミステリー
<杉江松恋さんが選ぶミステリー9選!>
文芸評論家の末國善己さんと、杉江松恋さんに、文庫特集参加版元9社から、それぞれ一冊ずつ、末國さんには「時代小説」、杉江さんには「ミステリー小説」を、セレクトの上、その魅力、読むべき理由をご寄稿いただいた。この夏必読!読めば新たな秋が来そうな、全18冊!お楽しみください。(編集部)
これを読めば通になれる一冊
文庫はミステリー・ファンの入場口だ。
ミステリーの面白さに目覚めると、すぐ近くに金脈があることに気づく。各レーベルの文庫には、手に取りやすい値段、サイズで名作が取り揃えられている。現代ミステリー界を俯瞰して、まずこれを読めば通になれる、という一冊を各レーベルからご紹介したい。

まず、角川文庫から青崎有吾『地雷グリコ』をお薦めしたい。二〇二三年に発表されるや、その年の各種ランキングで一位を独占し、純粋なミステリーとしては珍しく直木賞候補にも挙げられた。既存のものに変形を加えたオリジナルゲームで天才的な頭脳と勝負勘を持つ高校生・射守矢真兎が強敵たちと闘っていくという物語である。ミステリーの中核である伏線埋設とどんでん返しの技巧が優れているのは言うまでもなく、射守矢が対戦相手の心理を読んでいく過程がスリリングである。自分ではない人間が次に何をするかを当てる、というのは推理の究極形であり、わずかな手がかりから相手が何者かを見抜く、シャーロック・ホームズの神業にも似た味わいがある。かつて青崎は〈平成のクイーン〉の異名をとったが、今や〈令和一おもしろい〉(命名:杉江)ミステリー作家となった。

光文社文庫は秀作が多く目移りがするが、あまり読み慣れていない方のために東川篤哉『探偵さえいなければ』を挙げる。「謎解きはディナーのあとで」シリーズで東川は知られているが、当代きってのトリックメイカーの一人であり、ユーモアをまぶした文体に手がかりを混ぜ込んで大胆な謎解きをやってのける名手である。『探偵さえいなければ』は東川がデビュー以来書き続けている烏賊川市シリーズの一冊だ。人口の割には犯罪発生率が高い、文字通りイカガワシイ地方都市が舞台で、無闇矢鱈と災難に巻き込まれる私立探偵・鵜飼杜夫など複数の人物が交替で探偵役を務める。本書は短篇集で、着ぐるみばかりが集まった会場で殺人事件が起きる「ゆるキャラはなぜ殺される」が白眉で素晴らしい。シリーズはたくさんあるし、どの巻からでも読めるので気に入ったらどうぞ。

次はシリアスな作品を。集英社文庫はなんといっても佐々木譲『抵抗都市』が必読だ。大ベテランの佐々木は近年、SF的設定を取り入れた作品を意欲的に発表している。本作は、日露戦争で日本が敗北したもう一つの歴史を描いた作品で、東京がロシアの占領下に置かれているという設定になっている。警視庁の刑事である新堂裕作が捜査を開始すると、なぜかロシア統監府保安課からの干渉が始まり、事件の背後にあるきな臭いものの存在が浮かび上がってくる。本作は『偽装同盟』『分裂蜂起』(未文庫化)の三部作で完結しているが、通読すると作中で描かれている過去の日本が、国際情勢の中で地位が弱まった憤懣を弱者叩きに転じて糊塗しようとしている日本の現実に重なって見えてくる。自身を見つめ直す鏡としての意味もある作品なのだ。
技巧、奇妙な動機、大胆なトリック

新潮文庫からは白井智之『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』を推す。この七月に出たばかりの新刊だ。白井は究極の技巧派と言うべき作家で、この作品の前にもさまざまな新しい試みに挑戦してきた。本作の舞台はカルト教団がアメリカに設立したコミュニティで、特殊な決まりに縛られた信者たちが次々に命を落としていく。日本から教団に乗り込んだ探偵が、その謎解きに挑むのである。個々のトリックがよく考え抜かれているだけではなく、一つひとつの事件にそれぞれ複数解が出される、いわゆる多重解決ものになっている点が特徴である。同趣向の作品としては、現時点で書かれた中で最高水準作と言える。現代の日本ミステリーは一作にこれだけ技巧を詰め込むのだ、という見本市のような作品でもある。

他にあまり類例のない作品ということで、祥伝社文庫からは石持浅海『扉は閉ざされたまま』を紹介する。石持は奇妙な動機を描く作家で、なぜそんなことをしたのか、という行動の謎において、幾重にもねじ曲がった奇妙な心理を描き出してみせる。本作はそうした石持の特質を世に知らしめた記念すべき一作でもある。大学サークルの同窓会で、伏見亮輔という人物が仲間の一人を殺害する計画を立て、実行する。犯人が最初から明かされている、いわゆる倒叙形式の作品だ。殺害現場の扉を開けさせずに発覚の瞬間を遅らせるというのが犯行計画の根幹で、それはなぜなのかという興味が物語を牽引していく。謎解き役の碓氷優佳が登場する続篇『君の望む死に方』も書かれ、シリーズ化されている。

新刊だけではなく、旧作にも必読作は多数存在する。河出文庫『帰去来殺人事件 山田風太郎傑作選 推理篇』(日下三蔵編)はまだお手に取っていない方がいたら、急いで読んでいただきたい一冊だ。山田風太郎は、伝奇時代小説の書き手としての方が高名かもしれないが、キャリアの要所でミステリーの秀作を発表した作家である。『帰去来殺人事件』もその一つで、堕胎などを請け負う酔いどれ医者の荊木歓喜が探偵役を務める作品を集めた連作短篇集だ。大胆不敵なトリックに感嘆せざるをえないのが表題作で、その他「西条家の通り魔」「落日殺人事件」など代表作級の短篇が収録されている。山田風太郎は敗戦を機に権威を見限った現実主義者であり、ニヒリズムに裏打ちされた渇いたユーモアが横溢しているのも魅力の一つだ。
驚きを味わえる翻訳ミステリー

短篇集をもう一つ。文春文庫のジェフリー・ディーヴァー『クリスマス・プレゼント』(池田真紀子他訳)もまた必読である。ディーヴァーは全身不随の科学捜査官リンカーン・ライムと助手のアメリア・サックスのコンビが活躍する長篇シリーズにおいて、名探偵対怪人という古くからある物語図式を現代に復活させた。サプライズに次ぐサプライズで読者を翻弄するのが作風なのだが、短篇だともう少し腰の落ち着いた、じっくりと物語に引き込んでおいてから、不意打ちのような驚きを味わわせるという技法をとることが多い。本書収録の「ジョナサンがいない」を読んだときは、いつの間に話がよじれてそういうことになっていたのかがわからず、一瞬視界が失われたかのような恐怖を覚えた。そういう短篇がぎっしり詰まっている。

もう一冊、驚きを味わえる翻訳ミステリーを、今度は長篇で。中公文庫『スミルノ博士の日記』は、名のみ高いが実際に読んだ人は少なかった幻の名作の文庫化だ。作者のサミュエル・アウグスト・ドゥーセはスウェーデン生まれで、戦前に活動していた作家だ。本書は〈私立探偵レオ・カリング〉シリーズの一作で、すでに死亡しているワルター・スミルノという天才法医学者が遺した日記を読み解きながら、過去に起きた殺人事件の謎を解いていくという形式の物語である。あるトリックにおいて某名作に先行するものと見なされ、言及される機会の多い作品だ。なぜマニアが本作にのめりこむのかは、読めばわかると思う。(宇野利泰訳)

古典名作に言及したからには、この作品に触れなければならないだろう。創元推理文庫のエラリー・クイーン『Xの悲劇』(中村有希訳)である。フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーはクイーンの名で多くの傑作をものしたが、他にバーナビー・ロスを称して悲劇四部作と呼ばれる長篇を発表した。その第一作にあたるのが本作で、盲目の元俳優探偵ドルリー・レーンが初登場する。満員状態の市電車内で、ニコチンを沁み込ませた針による毒殺事件が起きる。その顚末を描いたものなのだが、推理に圧倒的な迫力がある。物的証拠を積み上げて論理的に可能性を狭めていくという静の推理だけではなく、今犯人は何を考えて行動しているか、という動の推理によって、状況が常に変わり続けるのである。何十年も前の作品と思って舐めてかかると、本作の醸し出すスリルに圧倒される。現代でもまったく古びていない作品なのだ。そして、青崎有吾『地雷グリコ』の源流はこの作品にある。
筆者プロフィール
杉江松恋
すぎえ・まつこい=文芸評論家・書評家・作家。『日本の犯罪小説』で第七八回日本推理作家協会賞評論・研究部門を受賞。著書に『浪曲は蘇る』『芸人本書く派列伝』『路地裏の迷宮踏査』『名探偵と学ぶミステリ』(共著)など。一九六八年生。