【愛するということ/エーリッヒ・フロム】        評者:井上京維洲 (立教大学法学部国際ビジネス法学科4年)

私たちは、日々の中で多くの不和を目撃する。相手を好ましく思ったり、愛おしく思ったりする感情が根柢にあるにもかかわらず、友人や恋人、家族との関係が破綻してしまうことがある。

 無論、私自身も例外ではない。例えば、好ましく思う相手がいたときに、相手のためになると思って何かをする。しかし、それが本当の意味で相手のためになったという確信を得たことは非常に少なかったようにすら感じる。

 これらの経験から、「なぜ、相手に対する愛情に基づく行動や関係が失敗に終わってしまうことがあるのか」「そもそも愛とは何か」といった愛に関する問題が私の中で大きな関心事になった。

 愛に正解など存在しないのだろう。それならば、自分なりに愛について考え、自分なりの答えを見つけたい。そう思った私は、その手引きとなることを期待して、本書を読んだ。

 本書では、愛は人間が抱える孤独の問題を解決することができる唯一の方法とされている。人間は生まれながらにして孤独だが、愛の実践を通してその孤独感を解消できる。しかし、それは成熟した愛に限った話だ。愛には、成熟したものだけでなく、未成熟なものも存在するという。現代では、成熟した愛はほとんどみられない。なぜなら、愛について考える時、大半の人が自らの愛する能力という視点を失ってしまっているからだ。成熟した愛を実現するためには、他者や自分自身に対する向き合い方を学ぶことが不可欠だ。愛の問題を自らの愛する能力の問題として捉え、成熟した愛の実現のために必要なことを、様々な例を出しながら論じているのが本書の内容だ。

 著者曰く、成熟した愛は、愛する者の自然な成長を支え、その人らしく成長発展したその人と関わることで達成される。相手を自分の自由になるように仕向けたり、支配したりすることは、未熟な愛だという。

 私は、ここに、関係が破綻する要因の一つが明瞭に示されていると感じた。自己の利益を目的とした「愛」は未熟であるから、失敗に終わるのではないか。自己の利益が目的である場合、それが達成されれば、「愛」を継続する理由がなくなり、関係が終了するからだ。成熟した愛を実現できるかは、その人を自己の利益のために利用しないよう心がけることが鍵になるのではないだろうか。

 著者曰く、愛を実現するためには、愛に関する知識と努力の蓄積が必要だ。すなわち、愛も他の何らかの技術を習得する時と同様に、よく学び、修練に励み、愛に対して関心を強く持ち続けることが不可欠なのだ。愛の概念や愛し方について義務教育で学んだ人は、私を含め、おそらくいないだろう。私たちの関心は、成功や名誉、富などにあり、それらを得る方法に向かいがちだ。愛を求める私たちは、愛の問題に対して技術の習得の時のような姿勢で臨めているだろうか。

 愛だけは、自然と身につくなんてちょっとうますぎる話だ。勉強や技能と同じように、たゆまぬ鍛錬の上に初めて身につけることができるものだという認識をもち、人を愛することに対して、もっとエネルギーを割いてみてもいいのかもしれない。

 愛について、とまではいかなくとも、どうしたら相手のためになることができるか考えてみたことがある人、あるいは考えてみたいと思ったことがある人は、少なくないのではないか。本書はその思考を大きく助けるものだ。一読をお勧めする。(鈴木晶訳)

この記事を書いた人

★いのうえ・きいす=立教大学法学部国際ビジネス法学科4年。大学で政治思想を学んだことをきっかけに、哲学に興味を持つ。洋の東西を問わず、自分の興味の向くままにのんびり勉強しています。

この本を読んでみる

コメントを残す