大学4年生。就職活動が本格的に始まって、いよいよモラトリウム期間の終わりを実感する。友人とのおしゃべりでも、以前よりずっと未来を見据えた話題が増えた。説明会に参加し、面接を受け、自己分析を繰り返す毎日。質問を受けたら理由と共にわかりやすく返さなくてはならない。そんなプレッシャーの中で、将来やりたいことやなにかに対して魅力を感じる気持ちに自信がなくなってしまう時もある。今回は、私のそんな気持ちを変えてくれた作品を紹介する。
本作は、小説、童話、詩、エッセイ、翻訳など幅広い分野で活躍する作家の江國香織さんが、さまざまな身のまわりのものについて綴ったエッセイ集だ。緑いろの信号、トライアングル、駅、ケーキ、化粧おとし、書斎の匂い――。普段は意識の外にあるような、けれど誰かにとっては確かに大切なものたちが60個ピックアップされ描かれる。
私が特に気に入ったのは輪ゴムについての文章だ。江國さんは、どうしてだかわからないが、輪ゴムが無性に好きだと語る。とくに必要としていなくても、いつでも手近にあってほしいくらい、彼女にとっては親密さを感じるもの。エッセイの最後はこのように締めくくられている。「かなしいものの一つに、だからのびたり干からびたりした輪ゴムがある。あれは実にわびしいが、それでさえも、仕事をしきって一生をまっとうした、というような、職人めいた潔さがあってちょっとほれぼれする。私はいまでも、台所でそういうゴムの屍をみると敬虔な気持ちになる」。干からびた輪ゴムを見て敬虔な気持ちになる、そんなこと考えたこともなかった。思い浮かべてみると、確かに便利で実用的だし、質素な見た目も無駄がなくてかっこいいかもしれない。もしかして輪ゴムって、結構いいものなのかも。ページをめくるまでは「とるにたらないもの」だったはずが、やわらかな文章のフィルターを通して、いつのまにか宝物へと変わっていく。
私の代わり映えしない毎日を、魔法のようにきらきらと輝かせてくれた作品。新しい気付きを得られるのに、どこかなつかしい気持ちになる不思議な作品。江國さんの目には世界がどんなに色鮮やかに見えているのだろう。生活のかけらひとつひとつに真剣に向き合う姿はどこかユーモラスで、なんだか可愛らしい。
最終章の「いいのだ、ということ」の最後で、「子供にとって、世の中は理不尽だらけだ。そのころの記憶が、私には思いきりしみついている。」と語られるように、大人として生きているこの世界を、自覚して、子供のように見つめることがとても上手な方なのだと感じる。ピンク色のものをみて無闇にうれしくなる子供っぽさも、化粧をおとす時間をひそやかであやしい時間だと表現する大人っぽさも、紛れもなくひとりの女性の中に共存するものだ。江國さんの紡ぐ文章には、ゆったりとした確かな幸せが背景にあって、大人になってもまっさらに好きなものを好きでいていいんだと気付かせてくれる。私もこんなふうに身の回りの「とるにたらないものもの」に気付き、愛せるような人になりたいと強く思う。
この作品が好きだ。大人と子供の境目に立っているすべての人にぜひ読んでもらいたい。
★やまうめ・まなか=帝京大学文学部日本文化学科4年。よく知らない町を散歩することと海鮮丼が大好きな普通の大学生。Twitterで見かけたとある一首をきっかけに、現代短歌の面白さに目覚めハマり中。推し歌人は岡野大嗣。