【眉山/さだまさし】評者:佐藤朱莉 (明治大学商学部商学科4年)


眉山
著 者:さだまさし
出版社:幻冬舎
ISBN13:978-4-344-40941-5

 

「普通」という言葉を、私達はよく口にする。けれど、私達の中で「普通」の意味を理解できている人はどれくらいいるのだろう。「普通」であることの線引きは、いったい何を理由に存在するのか。「普通」という概念を理解することはとても難しい。

 本書は、感情を持たない「怪物」と孤独に我が道を行く「怪物」が出会い、それぞれの「普通」の在り方、人々が当たり前に持っている「感情」を模索していく物語である。主人公のソン・ユンジェは人より偏桃体(アーモンド)が小さく、一切の「感情」を感じることができない。目の前で家族を惨殺された時も、ユンジェは怒りも悲しみも感じずただ無表情でその場に立ち尽くしているだけであった。

 そんな少年が17歳の時、幼い頃に親と離れ離れになり孤独に生きてきたゴニと出会う。ゴニは、どんなことをされても何の反応も示さないユンジェに対し、次第に興味を持ち始める。対してユンジェは、表情の変わらない自分の心を探ろうとしてくるゴニに興味を持つ。自分の感情が分からないまま生きるユンジェと、自分の感情のままに生きるゴニ。ユンジェとゴニという、全く正反対ともいえる二人が相互に作用しあい、二人それぞれに「相手を理解したい」という思いが芽生える。二人がそれぞれの存在を理解していくにつれ、ユンジェとゴニの感情が深く交わりあっていくのが身に染みて分かる作品である。

 ユンジェはゴニを友人だと認識し始め、かつ異性への意識が芽生えたときに、「自分でも理解できない僕を、人に理解してもらうことができるかな」と言っている。実の家族を亡くした痛み、そして自分自身の心の痛みに向き合ってこなかった少年が、他人と向き合い始めたことを暗示する言葉である。これは私が本書の中で最も好きなユンジェの言葉である。目に見えない変化であったとしても、私は励ましのようなものをその言葉から受け取った。

「感情」が私達の生活に必要不可欠なのは、それが全ての行動の基盤になるためである。『アーモンド』では、「感情」を持たない少年を中心に、彼の視点で物語が形成されている。その手法で著者は、「感情」と「行動」の繫がりを印象的に示している。ユンジェは本書の末尾で、命の危険を顧みずゴニを助けようとする。「行動」を起こそうとした時ユンジェ自身は無心だったが、しだいに「友達を助けたい」という想いが明確に現れる。ユンジェを見ていると、「行動」の後に「感情」が芽生えるような、そんな誰かのための「行動」ができるのは、心が豊かであることに繫がるのではないかと思う。

 ユンジェは最後に、「僕はそんなふうに生きたくはなかった」と「感じて」いる。ここでの「そんなふう」とは、他人の不幸に対して気の毒に思うだけで、自分の身を最優先する全ての人である。「感じても行動せず、共感すると言いながら簡単に忘れた」とユンジェは表現している。これは私自身を含め、数多くの人達が無意識にしている事ではないか。

「感情」を持たなかった少年ユンジェは行動することができた。自分ではない誰かのために。幼いころから「感情」を心に持ちながら生活してきた私達にも、出来ないはずはないと私は思う。何を思って行動するか、行動した先で何を思うか。私達はもう一度、ユンジェのように自分の感情を見直し、そして自分が何者なのかを自覚することで、誰かのための行動ができるようになれるのではないだろうか。(矢島暁子訳)

この記事を書いた人

★よこやま・ふみな=二松学舎大学文学部国文学科2年。好きな事は本を読むことで、特に村上春樹の本にハマっている。現在は漢検準一級の合格を目指し勉強中。

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