【生きるぼくら/原田マハ】評者:大久保春輝   (創価大学経済学部2年)

私が本書に出会ったのは、今から数か月前のことです。見えないウイルスの脅威によって、私の大学生活一年目は、思い描いていた理想とはかけ離れた、まるで色のない日々になっていました。ただ「何のために大学に来たのか、なぜいま勉強しているのか、生きる意味はなにか…」というような、誰も答えを教えてはくれない問いだけが頭の中を右往左往する日々に、嫌気が差していました。

 そんな時、ふと目に留まったのが「生きるぼくら」という背表紙でした。タイトルが希望の光に見えて、あらすじを読むと引きこもりだった少年が米作りを通して様々な人と出会い、成長し、変わっていく物語なのだと知りました。このままではいけない、変わりたいと思っていた私は「この本なら何か変えてくれるかもしれない…!」という想いで読み始めました。

 本書は、いじめから引きこもりとなった主人公の麻生人生(あそうじんせい)が、ある日突然、頼みの綱だった母から見捨てられてしまう場面から始まります。人生は、母のいなくなった部屋に残された数枚の年賀状の中に、大好きだったマーサばあちゃんからの「もう一度会えますように。私の命が、あるうちに。」という、わずかな余命を伝える言葉を見つけ、ついに家を出て、マーサばあちゃんのいる蓼科へと向かいます。それがきっと、母が自分に託した、たった一つの望みだと信じて…。

 夜の蓼科に降り立った人生は、マーサばあちゃんの家に辿り着けるかどうかという不安を抱えながら、駅前の寂しげな商店街を歩き「めし」とだけ書かれた暖簾を揺らす食堂に入ります。人生はここで、のちに人生とマーサばあちゃんを結び会わせ、人生にとって大切なことを教え、面倒を見てくれる志乃さんと出会います。人生が蓼科に来たわけを聞いた志乃は、人生をマーサばあちゃんの家まで送り届けることに。雪道を抜けた先でぼうっと明かりを灯す家に着き、志乃さんが戸を開けると、そこにいたのはおかっぱの若い娘と、変わり果てたマーサばあちゃんでした。

 自分のことを覚えていないマーサばあちゃんにショックを受ける人生は、この時はじめて、志乃さんからばあちゃんが認知症を患っていたことを聞くのでした。

 帰る家もなく、期限も目的も決めずにやってきた人生は、その夜マーサばあちゃんの家に泊まり、その後もしばらく過ごすことになります。訳あって、宝物のようだったケータイを失った人生。ここから人生の人生が少しずつ動き出します。

 これは、引きこもりだった人生と、蓼科で出会う沢山の、それぞれ事情を持つ者達が、マーサばあちゃんの田んぼでの米づくりを通して変わりながら、成長していく物語です。私は、この物語を読んで、忘れかけていたひたむきに努力することの大切さを思い出したように感じています。

 表題「生きるぼくら」が作中に登場した時には、その言葉の持つ意味、強さに鳥肌が立ちました。長野の小さな町の、小さな人の輪で起こる、誰もが共感できるだろう本作、ぜひ一度、新たな読者となって、米づくりの旅をしてみてください。きっと、米づくりをしたくなります。

この記事を書いた人

★おおくぼ・はるき=創価大学経済学部2年。

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