【書きたい生活/僕のマリ】評者:黒沼徹(山形大学人文社会科学部人文社会科学科4年)

 書くことは筋トレに似ていると思う。とにかく毎日続けること、そうすれば力は確実についていく。それが心の健康に繫がるような気がしている。(84頁)

 読了後、無性に何かを書きたい気持ちが沸き起こった。不細工でもいい。日記でも私小説でも、思ったことを言葉を選びながら形にしたい。私の生活は文字通り「書きたい生活」に変えられてしまった。書くことは、やり場のない感情を吐き出す機会を与えてくれる。言語化することは時に嫌なことを忘れさせない。辛いものだけれど、形にすることで、自分と向き合い、その時の感情を忘れずにとっておくことが出来る。忘れたい感情も自分の一部だと私は思う。そうした、書くことの必要性について教えてくれる、そんなエッセイだ。

 前作『常識のない喫茶店』の続編にて完結編である本作だが、前作を読まずとも楽しめる作品だ。私自身、本作から入った。気になった人は『常識のない喫茶店』も手に取ってほしい。

 作者の僕のマリは、本作にて、文章を見られることは裸を見られるよりも恥ずかしいと語る。その言葉が実感できるような筆致で、日常生活にありふれた光景を丁寧にこぼさず描き出す文章からは、作者の人となりがよく表れていると感じた。そうした日常に対する視点に加え、本作は様々な人物と作者の関係性が印象的だった。「常識のない喫茶店」での仕事を辞め、暮らしてきた町を離れることになった作者が、町の人、住んでいた部屋、働いていた喫茶店に別れを告げる。いつもすれ違う配達のお兄さん、お店の常連さん、近所の花屋さんなど、ありふれた人間関係を大切にする姿勢を文章は物語る。

 作者の日常に触れると、自分がいかに見過ごしていることが多いのかに気づかされる。通学の風景、いつも使うコンビニ、足しげくかよう図書館、行きつけの書店。一体、どれほどの人と関りを持っていて、その関りに注意を向けていたことだろう。移動時は音楽を聞いたり、スマホを見たり、本を読んだり、世界を狭めてしまっている。見落としているだけで、ありふれた生活にも素敵なことは転がっているのだ。

 日常は重く、そして脆い。しかし、その危うさをもってしても、毎日はよどみなく進んでいくし、そうやってつぶさに積み上げてきた生活を、誰にも奪われたくない。だからしぶとく書いている。(102頁)

 一方でそうした、ポジティブなことだけが語られるわけではない点が本作の魅力の一つだろう。作者が文章を書き始めたのは、辛いことを吐き出すため。そうした生傷が文章に見え隠れしている。辛いことを書くのは大変なことだ。書くことは忘れることを許さない。しかし、逃げずに辛いことも書いていく作者は自分の人生に真摯に向き合っている。そうした真摯さが故に、多くの人と出会い、関わり、大切にされているのだろう。

 自分の傷と向き合う大切さ、そして向き合うために「書く」ということ。現在、就職活動という名の戦いの最中にある私にとって救いとなる本だった。傷を抱えていない人間などいない。書くことで救いがあることを本書は教えてくれた。

この記事を書いた人

★くろぬま・てつ=山形大学人文社会科学部人文社会科学科4年。出版社を目指して就活しています。「準備」と銘打っては読書する毎日を送っています。本は心を潤してくれる。まさに文化の極みですね。

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