【貝に続く場所にて/石沢麻依】評者:宇草和弥(大阪大学人文学研究科日本学専攻基盤日本学コース日本文学・日本語詩学専門分野博士前期課程1年)

 『貝に続く場所にて』は、東日本大震災から九年後の、ドイツの街・ゲッティンゲンを舞台とする物語である。COVID-19の流行が緩まった夏、「私」は震災で津波に浚われ死んだはずの男、野宮と再会する。本作は、震災の記憶をうまく処理することのできない「私」たち、そして死別を経験してきた街の人々を映し出し、還らぬ者への追悼がいかにして可能か問い続ける。

 作中において、「私」や街の人々は、死者と共にあった過去から隔たり遠離る罪悪感から、時に彼らとの記憶を隔離・抑圧する。ゆえに、死者の記憶と応対し、彼らを悼むことには、常に困難がつきまとう。そして本作において、この困難は、コロナ禍という状況と不可分に描かれている。

 作中で「私」は、震災と喪失の記憶を喚起する野宮との会話を途切れがちにし、彼の匂いを知覚することをも忌避するが、こうした身振り・心情は、相手のエアロゾルの吸入を忌避して会話を控え、他者の発散する物質に恐怖や不快を感じる、コロナ禍における人々の身振り・心情とパラレルだ。痛みを伴う記憶を遠ざけるための「私」の行動様式は、パンデミックが人々に植え付けた、感染源を遠ざける習慣と呼応している。

 さらに作中人物の一人が言うように、コロナ禍という「閉塞的な状況」は「記憶と直接向き合わない」ことをも容易にする。互いを隔離するようになった我々は今や、痛みを伴う記憶をも、ごく容易に隔離できるのではないかと、重層するイメージは警告している。コロナ禍を経て我々は、記憶の隔離に慣れ、過去への距離感を鈍磨させてきたのである。

 それでは、人が今、死者に応接することの留保を解き、再び喪の作業を試みる時、それはいかにして可能なのか。本作はおそらく、持物アトリビユートを介した「巡礼」の試みを、この問いに対する一つの回答としている。

 「私」や街の人々は、街中に配置された太陽系のオブジェ群をたどる、「惑星巡り」の祝祭を通じ、空間・時間双方の距離感を取り戻すことで喪失の記憶と向き合う。その際に重要になるのが、野宮の来訪と同時期に、街の外周の森に現れ始めた、過去に亡くなった人々の所有物である。

 作中で言及される巡礼者聖ヤコブが、帆立貝の殻という持物アトリビユートで象徴されるように、過去の人物は、時に彼らと縁深い物により象徴される。森に現れた物たちは、失われた人々を象徴する持物アトリビユートだ。持物は、過去にその所有者が存在していたことを個々に印づけ、彼らと生者とを接続する。持物を媒介することで、我々は死者のいた過去から現在までの長い距離を、歪めることなく辿り、還らぬ者と自己とを隔てる距離を認識し、感覚する。そこで初めて、死者への追悼が始まるのである。

 作中終盤、野宮が森の中で拾い、所有するのは、ヤコブの持物と同じ貝殻だ。それは、仙台で野宮がよく食べていた貝の殻でもあった。この貝殻は、野宮という人間と、故郷の海、そして「私」たちとを繫ぐ、野宮の持物である。「私」は貝殻を起点に、九年前から現在までの距離を「巡礼」し、初めて還らぬ野宮に哀しみを感じる。「私」の経験するこの巡礼こそが、本作において提示された、追悼の一つの方途であろう。

この記事を書いた人

★うぐさ・かずや=大阪大学人文学研究科日本学専攻基盤日本学コース日本文学・日本語詩学専門分野博士前期課程1年。安部公房の後期小説作品について研究している。

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