小学生くらいまで、テレビのインタビューなどで、(20)という年齢を示すテロップを見ては強烈な憧憬を抱いていた。当時の私にとって、オトナは絶対的権力で、強くて、正しい存在であった。そして、自分もいずれはそうなれるんだと盲信していたから、早くオトナになりたくてたまらなかったのだ。
本書は、4篇からなる短編集で、語り手が子どもの時の記憶を思い出し、大人になった現在と関連付けるという構成になっている。どの作品も「子どもから見たオトナ」と「実際のオトナ」のギャップがテーマの一つであると筆者は読んだが、それぞれ異なる味わいで読者を飽きさせない。
「おとな」では、語り手が自身の最古の夢を語る。その内容は、近所の夫婦に預けられた時に二人に布団の中で裸ではさまれるという、なんとも奇妙なものである。語り手は「なぜそんな夢を見たのだろうか」と疑問に思うのだが、ふと気が付くのだ。「五歳だった私が、あんな夢を見られるわけがない」と。子どもだって馬鹿ではないから〝分かりやすく〟怪しい人には近づかない。しかし、悪意を巧妙に隠して善人面したオトナまで見破れるだろうか。結末部の「彼らはいつも笑顔だった」という一文が印象的である。
罪や悩みを打ち明ける側と聞く側、大人と子ども、どちらが優位に立っているかという問いに、大抵の人は「そりゃあ聞く側や大人が優位なんじゃない?」と答えるのではないか。「トイレの懺悔室」には、そういった力関係の脆弱さが読み取れる。優位性は、〝相手を制御できている〟という前提の下に成り立っている。だから、相手が自分の理解の範疇を超えてしまったら、それは相手に飲み込まれ逆転する。話を聞いたら最後、共犯関係に仕立て上げられ、逃げることすら許されない。崩れていく〝当たり前〟の力関係に、読了後はなんとも言えぬ後味の悪さが残る。
大人になると、子どもの時のように怒りを表現することが難しくなる。泣き叫んで、暴れて、何かに当たりたくなっても、理性が邪魔をしてしまうからだ。しかし、「憤死」の佳穂は違う。佳穂は恋人に納得いかない理由で振られて、ベランダから飛び降りた。悲しかったのではない。彼女は「怒りにまかせて、軽々と自分の命に八つ当たりした」のだ。我慢が求められるオトナの世界で、確かにぶっ飛んではいるけれど、感情のままに行動する彼女の生き様に憧れを持つ人も多いのではないか。
「人生ゲーム」は不条理な物語であるが、読了後は穏やかな余韻が残る。人生ゲームはルーレットを回して出た数で未来が決まってしまう「運ゲー」であるが、本物の人生だって同じことが言える。病気だったり、会社の倒産だったり、本人の意志ではどうにもならない不幸が訪れることもあるのだ。そんな時、人は何に救いを求めるのだろうか。「話を聞いてやる。いくらでも、何時間でも」――どうしようもない時、人はただ話を聞いてもらうことを求めるのかもしれない。
『憤死』は、〝オトナは決して完璧ではない〟ということを教えてくれる。どんなオトナも弱いところがあるし、間違えることだってある。子どもには想像がつかない闇を抱えていたりもするのだ。私が本書に出会ったのは中学生の頃だが、当時と二〇歳の今とでは少し違った感想を抱く。成長するごとに、自分の「オトナ観」が変化しているからだろう。さらに年を重ねたときには、本書をどう読むだろうか。オトナに憧れを持つティーンから、オトナを充分に生きてきた中高年まで、幅広い年齢の読者に読んでほしい一冊である。
★せきや・はるか=二松學舍大学文学部国文学科3年。書道部に所属しており、最近はペン習字に挑戦中。好きな本のジャンルはホラーやミステリ。旧日本ホラー小説大賞受賞作は大体読了している。