【承久の乱/坂井孝一】評者:酒井瞭一   (立命館大学文学部日本史専攻3回生)

 

今年は承久の乱が勃発してから800年という節目の年である。承久の乱について簡単に述べると当時幕府の中で権力を握っていた北条氏と後鳥羽天皇率いる朝廷が争った乱である。しかし、この800年前に起きた乱についていまだ明らかになっていないことが多くあり、現在でも研究者の間で様々な議論が交わされている。その議論をいくつか取り上げたうえで、著者自身の新たな見解を述べているのがこの本である。

「第一章 後鳥羽の朝廷」では朝廷側、特に後鳥羽天皇の生涯についての概略が記され、歌や蹴鞠、武芸など幅広い分野で非凡な才能をみせた後鳥羽天皇は、朝廷において「帝王」として君臨したとしている。こうなるに至った背景について著者は、三種の神器のうち宝剣を失った状態で即位した「異端」な王というイメージを払拭するためだと書く。逆境の中で彼が「帝王」として振る舞う姿勢には感服させられる。一方「第二章 実朝の幕府」では、鎌倉幕府第三代将軍源実朝の生涯について述べられる。彼は歌人として後鳥羽天皇と繫がりがあったとし、この頃は幕府と朝廷の仲は悪くはなく、むしろよかったとする。ただ、実朝が暗殺されたことをきっかけとして、朝廷と幕府の間に溝が生じたと指摘する。

 そして「第四章 承久の乱勃発」の中で著者は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を滅ぼそうとしていたという従来の説を覆し、鎌倉幕府の実質の権力者であった北条義時を追討しようとしていたという新たな説を提唱している。歌人として交流があった源実朝の殺害を見過ごした鎌倉幕府に嫌気がさしたのか、はたまた「帝王」後鳥羽の気まぐれで北条義時を追討しようとしたのか。私には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府にほとほと呆れ、鎌倉幕府の実質の権力者であった北条義時を強い意志を持って追討しようと立ち上がったために承久の乱が勃発したように思われる。また、乱が勃発した際の鎌倉幕府側、朝廷側双方の軍勢と動向について忠実に述べられており、生々しい合戦の様子がありありと目に浮かんでくる。

 続く「第五章 大乱決着」では互いが血を流す合戦は次第に終わりを迎え、鎌倉幕府側の勝利で決着したと書かれる。敗者である朝廷側は非常に悲運な運命に遭い、乱を画策したとされた後鳥羽上皇は島流しにされ辛酸な思いをすることになったとしている。「第六章 乱後の世界」では関東だけでなく、関西にも支配を及ぼしつつあった鎌倉幕府は承久の乱での勝利をきっかけとして、関西に対して大胆な支配を行うようになったことが書かれる。他方、敗者である後鳥羽上皇を批判する文化作品も登場するようになり、「帝王」として君臨した彼の面影は無くなってしまった。ただ、彼はそのように落ちぶれてもなお生きることをあきらめず、歌集の編纂に努めるなどしてしたたかに生きていた。彼のこの態度は大いに見習わなければならない。

 私はこの本を読んで、辛い現実から逃げず力強く生きようとする後鳥羽天皇の生きざまをみて元気をもらえた。コロナ禍によって鬱憤を抱えさせられた方にも、ぜひ読んでいただきたい一冊である。

この記事を書いた人

★さかい・りょういち=立命館大学文学部日本史専攻3回生。サイクリングが趣味で自転車に乗ってお寺や神社などを巡ることに最近没頭しています。

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