言葉とは、なんだろう、と考えている。
日々大量に書き込まれては更新される言葉、遠くまで飛んでいき永久に傷として残る言葉。肥大化した言葉の時代にわたしたちは生きている。
抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ
五七五七七という、たった三十一文字のなかで、鳥になった歌人がいた。この歌を含め295首からなる本書は、萩原慎一郎さんの第一歌集である。
短歌は過去の遺物などではない。むしろ、短歌の形態は現在進行形で進化し続けているといえる。「現代短歌」は寛容なジャンルだ。自分の想いを三十一文字に込めて詠う、ルールはそれだけ。
非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている
萩原慎一郎さんは、非正規の仕事につきながら現代短歌を紡いだ。望む仕事が得られない悔しさ、いじめをうけた学生時代の想起、孤独を、短歌へと昇華して詠み続けた。〝負けるな〟という言葉は、同じ境遇にいる者達へ向けたエールであるだけでなく、強く言い切ることで、自身もそうあれるよう想いを込めた祈りにもよめる。
叩け、叩け、吾がキーボード。放り出せ、悲しみ全部。放り出せ、歌。
カタカタと、荒々しい音。ページの底に沈む、行き場のない声。そのすべてが重なった先に構築された不協和音は、まさに歌人の叫び、そのものだ。だがそれは同情されるべき可哀想な叫びではない。そのノイズ一つひとつが、前を向きたい希望の材料だから。最後に締め括られるのは、叫哭でも、怒号でもなく、〝歌〟という言葉なのだ。
かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む
叫びから歌へと姿を変えた言葉には、愛の血が通っている。電波が簡易的な愛を瞬間で届けるこの時代に、短歌という告白は〝きみ〟に届いたのか、わからない。でも、それでもいいのだ。不器用な歌人は、〝きみ〟とおなじくらい歌をひたむきに愛していた。短歌のリズムが、たったいま誰かを愛する声となり、私の頭で再生される。声は、やさしい光となってゆく。
今日という日を懸命に生きてゆく蟻であっても僕であっても
恋のまなざしは、ときに、この世界のより深いところへも向けられる。萩原さんは、か弱き者を高所から見下ろすのではなく、腰を下ろした視線で、自分と等しく働く者として詠む。そこには複雑で残酷な世界を、言葉によって繫ごうとする慈しみと愛がある。
本書では、短歌への猛烈な熱や、親が子に感じるような言葉に対する信頼が、五七五七七のリズムにのせられる。現実世界の苦悩に向き合い、明日を変えるべく紡ぎ出す懸命な言葉に、共感が静かにひろがっていく。
現代短歌、そして萩原さんの存在を教えてくださったのは、高校の先生だった。SNSで知らない人から投げられた無責任な言葉に傷つき、言葉に対して不信感を抱いていた私に、先生はこの歌集を手渡してくださった。
空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が
この歌集には、深淵から光を摑もうと、ひたむきに手を伸ばす言葉があった。その健気な姿に眩しさを覚えた。
きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい
さきほど本書は萩原さんの第一歌集といったが、それは、これからも永遠に更新されることがない。萩原さんは「滑走路」出版の年に、自ら命をたった。それを知ってから、先生があの時どんな想いでこの本をくださったのか、今でも考える。
不信用な言葉が蔓延るこの時代に、言葉をひたすら信じて、真摯に短歌に向き合った歌人が遺した295首は、たった今この時も、誰かのためにやさしい翼で舞い降りひかりを灯し続けている。言葉とは、いったいなんなのだろう。もう一度この歌集を手にして、考えたい。いつか言葉が、翼になることを信じて。
★おおさわ・ゆの=二松学舎大学文学部2年。休日は美術館巡りしています。好きな画家はベルトモリゾです。本も読みます。好きな作家は石井桃子さんです。