【喜嶋先生の静かな世界/森博嗣】評者:岩瀬みずほ(成城大学文芸学部文化史学科4年生)

 「今までの経験を活かして」という挨拶に、喜嶋先生は「そんな経験のためにここにいたのか」と言う。研究とは、「良い経験」では到底片づけられない、壮大な行為だ。本書はある理系大学生が喜嶋先生に出会い研究者になる過程を、その学生目線で追った小説である。

 大学四年生の「僕」が卒論のために入った喜嶋研究室では、簡単にいえば数式とコンピュータが半々の分野を研究している。コンピュータが集まる計算機センタでプログラムを走らせ、研究室に戻って机に向かうという日々を過ごす「僕」は、プログラムのために頭を使うことが何よりもエキサイティング、と研究の楽しさに魅了され、大学院への進学を決める。計算機センタには嬉々としてディスプレイを睨んでいる人しかいない。大学には夢中になって自分の好きなことをしている大人がいると知ったことで、大人に対して潜在的な不信感を抱き、自分も大学を卒業したら就職して社会の駒にならなくてはいけないのだ、と半ば諦めかけていた「僕」の人生は一変した。

 喜嶋先生は合理的で論理的で、エレガントな考えの持ち主だ。普段から心のまま、考えたまま、正直に言葉にするのが誠実な研究者だと考える先生は、「飾りではなく、内容のある言葉」しか発しない。「僕」は先生の言葉、研究者としての姿勢に影響を受け、先生の人格に少しずつ近づいていく。なかでも「学問には王道しかない」という先生の言葉は、人生の道標となった。ここでいう王道は歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことで、「僕」はこの言葉が人間の美しい生き方を言い表していると考えている。

 そんな喜嶋先生が生きる世界は、数式や数値計算の中に興奮があり、実生活の毎日はほとんど変化がない、はたから見ると静かな世界だ。その研究は完全な基礎研究で、工業への応用には距離があることもあり、先生はテレビに出るような有名人ではないし、自身も地位や名誉を求めていない。余計なことは考えず、ただ純粋に研究し、人間の知恵の領域を広げている。

 喜嶋先生の世界に触れた「僕」は研究の美しさにますます惹かれ、博士課程に進学する。卒論も修論も研究テーマは先生から与えられていたが、博士論文はテーマ決めから自分で行わなくてはならないため、成果が出るという保証がない苦しみに耐えられず去っていく人も多い。研究者にとって最も頭を使い、最も大変な作業は、自分に相応しい問題を探すことだ。自分で与えた試練に立ち向かう方が、与えられた試練に立ち向かうよりも絶対に面白いとわかっている「僕」は、最終的に博士号を取得し一人前の研究者になる。

 卒論を執筆する中で自分の研究の価値が何なのか悩み、研究とは自己満足に過ぎないのかと尋ねる「僕」に、当時指導してくれていた院生は「自分が満足できるなんて、そんな素敵なことはない。それは価値が大ありだ」と答えた。静かな世界に生きる喜嶋先生と「僕」の研究は、人類にとって価値のある成果を生む以前に、彼ら自身を満足させるものであった。

 進むべき方向に迷ったときに、「僕」がいつも考える「どちらが王道か」という問いは、「どちらが自分を満足させられるか」と言い換えてもよいのではないだろうか。この問いには自分しか答えを出すことができない。本書は、読者に人生の指針を考えるきっかけをくれる一冊だと思う。

この記事を書いた人

★いわせ・みずほ=成城大学文芸学部文化史学科4年生。

趣味は祖父から譲り受けたフィルムカメラで思い出を残すこと。学生生活最後の1年間、今しか撮れない写真をフィルムに焼き付けたい。

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