【想像ラジオ/いとうせいこう】評者:馬渡千咲希(桜美林大学リベラルアーツ学群4年)

 毎年のように地震や豪雨といった大規模な災害が発生している。そんなニュースを見る度、何かが突き刺さったように私の胸は痛む。何もできない自分が不甲斐なくて、耳を塞ぐようになった。知らなければ、幾ばくか楽になれると思ったのだ。そんな私にこの作品は訴える。「耳を塞がないで」と。

 軽快なリズムでラジオの進行をする彼はDJアーク。スタジオもラジオ局もない、想像ラジオのパーソナリティだ。山の杉の木に引っ掛かったまま放送している。水中や山奥、どこでも身一つで視聴可能だ。けれど、少々特殊なこのラジオはリスナーを選ぶ。本書は、ラジオで話す者と、耳を傾けようとする者の物語だ。

 全五章で構成されており、奇数の章はDJアークが話している。きっと喋るのが好きなのだろう。過去の失敗談から恋バナ、果ては即席の小説を披露したりと引き出しは多い。偶数の章ではSという人物がラジオを聞こうとする。Sには想像ラジオが聞こえない。聞こえないが、存在すると信じている。どういう姿勢で聞くのがよいか、時に友人と意見をぶつけ、模索する。

 リズミカルなDJアークの喋りには時々抑えきれない感情が垣間見える。怒り、もどかしさ、不安、悲しみ。「神様の所業なのだろうか。呪いなのだろうか。」飲み込めない感情をDJアークは言葉にしていく。この作品のモチーフは東日本大震災だ。

 人は生物である以上、誰だって死ぬ。災害か病か、老衰か事故かわからないが、必ず死ぬ。避けられぬ事象であることは知っているが割り切れない。逝く者、残される者双方にどこか「理不尽さ」が伴うからだろう。作中にこんな文がある。

 「生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。」

 あの人が生きていれば、と思うとき必ず生者と死者が存在する。生者は死者を思い、死者は生者の思いに応える。共に存在し、共に未来を作り出す。どちらが欠けてもいけない。

 多くの人にとって、死は日常にはない。人の社会は、生きている人を中心に動いている。忌引きで休もうとも、数日で社会に戻る。普段の生活に忙殺され、悲しみに浸っていられない。現実で精一杯なのだ。

 私たちが命尽きた瞬間、この世界からは居場所はなくなるのだろうか。誰にも目を向けられない私はいないも同然。それが世界から消える瞬間だ。

 死者を思うとき、「死」という事実と向き合う必要がある。残された者は、耐えがたい悲しみを背負うかもしれない。しかしその時間は、生者を通して死者はこの世界に存在できる。

 東日本大震災から十一年が経った。簡単に情報が手に入る時代に、世界は刻々と更新されていくように感じる。まるで死者が入り込める空間が埋められていくようだ。死を忘れると同時に、生きていることをも忘れつつある気がする。しかし、作品を通してあの日を思い出す。

 鼓動に、体温に少しだけ耳を傾けてほしい。

 今、生きている。この瞬間は消させない。

この記事を書いた人

★まわたり・ちさき=桜美林大学リベラルアーツ学群4年。好きなことは中国ドラマの鑑賞。毎日ハードディスクの容量との格闘をしている。字幕なしでも見られるよう、中国語を勉強中。

週刊読書人2022年10月14日号(データ版購入可能)

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