本書では発達障害の当事者である綾屋紗月が、自身の経験してきた生活の中での困難をいくつか取り上げて、なぜそのような状態になってしまうのかを考えている。問題の原因として、情報のまとめあげ方に「普通」との差異があると指摘する。
発達障害は、「社会的コミュニケーションの問題」「常同的な行動(こだわり)」等の診断基準の一部が、その特性として知られている。しかし、個人にフォーカスしてみるとその特性は実に多様であり、一般的に知られているものだけでは説明しきれない。しかもその特性から生じる困難さは、「普通」の人が感じるものの延長線上にあり、見た目には表れない。仮にそれをほかの人に話したとしても「そんなの私も感じるよ。みんな同じだよ」と片付けられてしまう。そして、この感覚は本当にあるものなのだろうかと疑い、自身の感覚が不確かになっていく。綾屋が自身の感覚の実在性を疑うような描写がある。
「だが……「だれでもそう」なのか? それにしてはみんな、なんてことなさそうに過ごしているではないか。(中略)身体に起きていることは人と同じなのに、私だけが「感じすぎる」のか?」
本書では「感覚」という、他者と比較しにくい経験を中心に扱っている。第1章、第2章では感覚の中でも身体内部から生じる感覚と外界から入力される感覚について述べ、この基礎的な部分から自閉を再定義している。その後、綾屋の特異な経験を再定義した「自閉」という概念から分析していく。最後の章では共同執筆者で脳性まひの当事者である熊谷晋一郎がそれまで綾屋が述べてきた概念、分析を用いて自身の経験について捉えなおしたうえで、「ゆっくりていねいにつながる」ということについて言及する。
例えば会話するという体験についてこんな事例が挙げられている。会話への参加は発声するところから始まるが、綾屋は会話の際の大量の情報の流入によって発声ができなくなる。そのため、綾屋は時折手話を使用する。しかし多数派の「声」を手段としたつながり方では、それ以外の手段でつながることはできない。つまり声を使わずしてつながろうとする人を、疎外することになる。相手の困難を理解してつながろうとすることで、綾屋が経験したようなコミュニケーションにおける疎外は軽減される。これが「ゆっくりていねいにつながる」ということなのかもしれない。
綾屋は「あなたと私の困難さは「質的に同じでも量的に異なる」のではないだろうか」と問う。現在、巷にあふれかえっている「多様性の言説」では、あなたと私の苦しさの違いが、すべて同じレベルとしてしか、認識できないのではないだろうか。苦しさ、困難さのレベルの違いを認識できるようになってようやく、「多様性の言説」で多くの人が救われるのではないだろうか。
苦しさのレベルの差を知るには当事者の語りが必要不可欠となってくる。本書は再定義し、わかりやすい言葉に組み替えられた「自閉」の概念により、その苦しみが腑に落ちるように書かれている。この本には「多様性の言説」をレベルアップさせるためのヒントがたくさんある。質的ではなく量的に、理解をすることが重要なのだ。
様々なマイノリティについての理解が進んでいく一方、発達障害に関する理解はどこか頭打ちになっている印象がある。それは感じ方、感覚の捉え方という難しい部分が、問題となっているからなのだろう。
多くの人に読んでほしいと心の底から願う。そして感じ方、捉え方の違いについて知ってもらえたら嬉しい。
★いちしま・のぞみ=帝京大学文学部社会学科2年。
どこにでもいる大学生。基本的になんとなくのほほんと生活をしている。大学では障害学を主に勉強している。