【鏡をみてはいけません/田辺聖子】評者:嶋田かゆ(桜美林大学リベラルアーツ学群3年・社会学専攻)

 私は『おちくぼ姫』を読んだことがきっかけで、田辺聖子の作品の沼にはまった。日本の昔話の一つでもある『落窪物語』の現代語訳である。人の情、葛藤、そしてやさしさをさりげなく表現している。それが彼女の作品の好きなところだ。彼女の残した数多くの作品の中から今回は、『鏡をみてはいけません』を紹介したい。

 主人公の野百合は恋人の律と同居を始め、彼と彼の息子の宵太のために朝ごはんを作る。律の妹の頼子も一緒に暮らしている。頼子に戸惑いを感じながらも、嫌いにはなれない野百合。彼の元妻、橘子の存在も悩みの種となる。

 「朝ごはんを一緒においしく食べられる人と住みたい」という野百合の願いは叶うが……。自分の居場所はどこなのか、という壁にぶつかる。このままでいいのか、本当に今の状況に納得しているのか。

 野百合は会社に勤めていた。律と暮らす今は仕事を休んでいる。仕事を辞めるか、もう一度会社で働くのか。悩んでいる彼女に律が放った一言が印象的だった。

 「会社で働き、家でも働く、なにもそんな、瞬間最大風速みたいな生きかた、せんでもエエやないか、――走らんと、歩こやないか」

 律のこのスタンスは生きるうえで大切なのかもしれない。なにかをするとき、人は一生懸命になってしまい、自分を追い込んでしまう。そんなときに「走らんと、歩こやないか」と自分自身に声をかけてみたら、こころが軽くなるのではないだろうか。

 そんな律に対して野百合は「べたーっと」男のそばにいたら後悔するんじゃないかとも思っている。しかし、結婚しても、変わらなくてもいいという律の態度に気が楽になっている。

 朝ごはんへ強い思い入れを持つ律。朝ごはんを作るのが嫌いではない野百合。だが律とのすれ違いで募っていく苛立ち。そして「朝ごはんスト」が野百合によって行われる。揺れ動く気持ちの行き先はどこなのか。

 一方、宵太へ抱く感情も話が進むにつれ変化していく。眠っている宵太をみて「どこの馬の骨だろう」という感情。それと同時に「おなかが冷えてはいけない」とタオルケットをかける気持ち。母親ではないが募っていく宵太への想い。この作品は「家族」の概念を考え直すきっかけにもなる。100家族あれば100通りの形があり、それぞれに悩みを抱え、支え合いながら生きている。互いが家族と思えば、家族だ。私はこの作品を読み終わったあとにそのように考えた。

 田辺聖子の作品は日常を描いたものが多い。なぜなのだろう。私は「日常の尊さ」を伝えたかったのではないかと思う。誰と比べるわけでもない。日常の小さな出来事の中に感動を見出すことができたら、毎日が今よりも豊かなものになるのではないだろうか。

 今回は『鏡をみてはいけません』を紹介させてもらった。これをきっかけに田辺聖子の他の作品も読んでみてほしい。日常こそがかけがえのないものであると気づくはずだ。

この記事を書いた人

★しまだ・かゆ=桜美林大学リベラルアーツ学群3年・社会学専攻。

ゼミで「格差社会」について学んでいます。社会学を学び、自分がいま生きている社会に目を向けるようになりました。そんな中「当たり前って何だろう」という疑問にぶつかり、社会に人に興味を持つようになりました。

週刊読書人2022年9月9日号(データ版購入可能)

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