感想は山ほど頭に浮かぶのに、言葉にしようとすると難しくなる。悲しい、悔しい、といったシンプルな感情表現では決して表すことのできない気持ちが筆者を襲った。『檸檬先生』は自分の中にある様々な疑問と正面から向き合う力をくれる。なぜなら、「少年」と呼ばれる一人の人間が、檸檬先生と出会い、「特別」から「普通」へと変化していく、その人生の中でぶつかる沢山の「悩み」が、モノクロで描かれる「色」を通して生々しく表現されているからだ。
本書は、小中一貫校に通う小学三年生の「少年」に、中学部に通う少女――「檸檬先生」との出会いをきっかけに起こる変化を描いている。二人の変わり者は周りの環境に振り回されながらも時間を共にし、お互いに影響を与え合いながら様々な経験を重ねてゆく。「共感覚」の持ち主である二人は、お互いに分かりあえる部分があった。少年は檸檬色に輝く瞳をもった少女を「檸檬先生」と呼び、見たもの聞いたものが色として見えることの、唯一の理解者であり教育者といえる存在を通して、「普通」を覚えてゆく。二人は育った環境も年齢も全く異なるが、共感覚という一本の糸で繫がっていた。しかし、その糸は時間の経過とともに細く、脆くなってゆく。
「意味のある奴には色がある。私は透明なんだよ」
「そんなことない」
「そんなもんなの」
「でも先生は、きれいな檸檬色をしてるじゃんか」
「あのね。全部が共感覚で片付くと思うなよ。」
先生の発した「透明」という表現。それを何とかして否定したい少年。この短い会話からも二人の言葉にならない関係性がうかがえる。中学三年生にしてすでに自分の人生を達観している先生のやるせない気持ちと、ひたすら真っ直ぐに先生を見つめる少年の視線が交錯し、すれ違うさまを見るのは読者としては苦行に他ならない。しかし、結局最後まで目が離せないのは言うまでもない。
少年が変わり者と評される理由には共感覚ともうひとつ、変わった家庭環境がある。画家で、しょっちゅう家を飛び出しては世界を飛び回っている父と、そんな父に愛想をつかしながらも家庭のために一日中働いて少年を養っている母。そんな二人の気持ちを子供ながらに何となく察している少年は母との食事の中でも、上手く言葉を紡ぐことができないでいた。
先生と少年が文化祭のために共同制作した共感覚アートは、やはり個性の塊だった。そこに商品性はなく、二人の表現したい世界観を放出したに過ぎなかった。共感してほしいなどという思いは微塵もないからこその産物である。共感覚を使って色を重ねていく非現実的なアートに、少年による、共感覚と作品についてのプレゼンが加わる。その二つがあって初めて彼らの芸術は完成した。自らの特性を生かし、芸術に昇華させた二人だが、先生はいったい、どんな結果を望んでいたのだろうか。
数年後、少年は先生と再会する。思わぬ形での再会となったが、少年はそこで気付く。先生は変わってしまったのか、いや、自分が変わってしまったのか。
「世界が、色づいている」
「ねぇ少年、この世界はモノクロだよ。」
二人を繫いでいた糸が切れる音が、読者一人一人の頭の中でどのように響くのか、とても気になった。
★わたなべ・かえで=二松学舎大学文学部1年。
最近は作曲に没頭している。音楽にハマったのは、くるりの「ブレーメン」がきっかけ。曲の素晴らしさに衝撃を受け、自分の音楽に対するハードルがぐんと上がった。