【未必のマクベス/早瀬耕】評者:梅津春風(大阪大学外国語学部英語専攻4年)

 この本を読んだのは、海外の犯罪小説の、大胆で複雑で残虐な、正義と悪の闘いにお腹がいっぱいになったころである。文庫本で600ページを超える大作である本書には、恋愛小説の懐かしくて甘酸っぱい感覚と犯罪小説の重厚で読み応えのある現実感が存分に盛り込まれている。「異色の犯罪小説にして、痛切なる恋愛小説」という触れ込みに惹かれたが、そのとおり、読後は犯罪小説らしくないきれいで澄んだ後味が残る。

 「あなたは、否応なく、王として旅を続けなくてはならない」

 IT企業で交通系ICの営業をする中井優一は、偶然立ち寄った澳門のカジノで大金を稼いだ晩、客引きをしていた女性に、このように未来を告げられる。翌日、声をかけてきたカイザー・リーを名乗る男は、中井に日本企業の「香港現地法人の未公開株」の買取を持ちかける。直後に中井と同僚の伴は香港の子会社への出向を命じられ、物語が動き出す。中井は日本・香港・東南アジアを舞台に、企業の利益とその深い闇に巻き込まれながら、大切な人を守るために抗うことを選ぶ。

 『マクベス』の内容は文中で丁寧に説明されており、未読でも本書を読み進めるのに支障がなかった。『未必のマクベス』の題が示す通り、だれも意図していないうちに舞台が整えられていて、幕があがると中井は王になる使命を受け入れることになる。同僚の伴浩輔と中井の彼女の由記子にも、シナリオに沿った役割があてはめられ、中井は大切な人が安全であるための終幕を探す。

 魅力の一つは、物語の緩急である。国を越える犯罪が進むと同時に、異国情緒が香り、中井は淡い初恋や同級生との思い出を回顧する。

 香港に異動になった中井は「董事長」と呼ばれ、電話口では「喂(中国語でもしもし)」と応える。キューバリブレを飲んで、巨悪に立ち向かい抗う様子はハードボイルドのようだが、その暗さに香港の言葉がアジアンな親しみやすさを添えていて、読者としてついつい犯罪を忘れて異国の伸びやかさを感じ、旅に行きたい気持ちが駆りたてられる。

 旅については中井が冒頭に述べている。

 「旅は、自分の居場所に帰る道を知っている間に終わらせる方がいいと、ぼくは思う」

 王としての旅とその居場所は、空間的にも時間的にも広がりまた収縮する。物語が進むにつれて舞台は東南アジアの国々に広がり、中井の居場所は危うく不安定になる。彼は幾度も回顧し、過去の初恋を思い出すことで、自分の置かれた現在の意義を刻み、大切な人のために淡々と役割を果たすのである。その回想には、ほほえましさと甘酸っぱさがあふれていて、読者に初恋のなつかしさを想起させる。国を越えた犯罪の恐ろしさや現実感はそのままに、回顧することで何とか今の居場所を定めようとする彼の様子は、初恋の盲目的な純愛を思わせるのだ。

 犯罪は初恋のために存在し、同時に初恋がゆえに中井は悲劇の物語から逃れられない。恋の厄介さが、本書を印象的な犯罪小説、且つ痛切な恋愛小説として、胸に刻みこませる。さらにハードボイルドの要素も、旅行小説としても楽しむことができる。激しいのに穏やかさを感じる、何度も読み返して味わいたくなる本だ。

この記事を書いた人

★うめつ・はるか=大阪大学外国語学部英語専攻4年。

アメリカ文学のゼミ所属。深夜ラジオを聞いています。好きなものはハヤカワポケットミステリの色付きの装丁です。

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