【君か、君以外か/ROLAND】評者:関根早紀(大東文化大学法学部政治学科4年)

 本書はローランドという一人の人物の「人生」「仕事」「生活」に対する考え方が、アフォリズムで紹介されている。歌舞伎町のホスト? 自分とは関係ないな。そんな声が飛んでくる気がする。正直に言って、筆者もホストに取り立てて関心はない。しかしローランドの言葉の中には、これから社会人になる私にとって、時間の使い方や将来ありたい姿への示唆があり、本書について自分の言葉で伝えたいと考えた。

 本書に「人々はスマホを使いすぎている。死ぬとき、走馬灯にスマホの画面が出てくるはずだ」という言葉がある。デジタル社会が浸透した現在、最新のトレンドが凝縮されたSNSに、常にアクセスできる状態が当たり前だ。しかし皆が一斉に、あるべき理想を追いかける恐ろしさに気づいた時、ローランドの「君か、君以外か。」という言葉が脳内に浮かんだ。人間にはそれぞれに本来持ち合せた個性があり、その人らしさが前面に現れた人生で良いはずなのに、時代に乗り遅れるのを恐れるあまり「世間や他人にとっての」普通を求めるのはあまりにもったいない。実は理想に追いかけられているということを著者は訴えているのではないか。一度きりの人生なのだから、走馬灯には、この世で食べた一番美味しかったものが、大好きな人との思い出と共に出てくる人生でありたい。

 そこで、筆者はローランド流デジタルデトックスの一つを実践した。その結果、一日のスマホの平均使用時間が4時間から40分になるだけでなく、友人が駅を吹き抜ける風にあたりながら気持ちよさそうに空を眺める姿が素敵だな、といった、人の新たな魅力に気づくことが増えた。

 それは「ロマンやプライドを追求できるのは、人間に生まれた特権だ」という言葉にもつながる。バスから窓の外を眺め、エンジン音や自然音を聞いていると、スマホをいじらなくても時間そのものを楽しめていると気づいた時、ローランドの言う人間に生まれた特権は、有形無形を問わずに感じられると思えた。

 「散歩は最高の創造の時間である」という言葉は、睡眠以外の脳のリフレッシュ時間を確保することの大切さを示していると捉えた。実際、ぼんやりしている時に、名案が浮かぶことは多い。また、休んだはずなのにどこか疲れているというのは、デジタル社会が生み出した弊害の一つとも言える。日常生活のほんの一部に、無の時間を組み込み、脳を休ませることこそが、デジタル社会で最高のパフォーマンスを発揮するために、求められることなのではないか。

 ローランドの言葉のすべてが心に届いたわけではない。しかしたとえば、「普通に成功することは勿論素晴らしい。でもそこに逆境というスパイスが加わると最高の味になる」といった言葉が放つ現実感、言葉そのものの輝きは、いま大切にしたいことをたくさん気づかせてくれた。帝京高校サッカー部時代、どれだけ練習してもレギュラーになれずに、テレビで部員の活躍を見ていたこと、ホスト下積み時代、体が大きいという理由で先輩に焼きそばパンを無理に食べさせられたこと、アパレル事業を始めても、自信を持って売れる自分の好きなものが、必ずしも世の中に受け入れられるものでなかったこと、本を出版する際、寒い車中でも一生懸命筆をとったのにゴーストライターの存在を疑われるなど、多くの挫折を経験してきたローランドの言葉は、日々を振り返らせ、生を活気づける力があるのだ。

この記事を書いた人

★せきね・さき=大東文化大学法学部政治学科4年。

コーヒープレスで淹れた熱々のコーヒーを飲みながら、自宅のベランダでオリオン座の中の小さな星を眺める時間が好き。

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