【林住期/五木寛之】評者:森本拓輝(大阪国際大学人間科学部4年)

 本との出会いは実に不思議なものだ。本書との出会いは大学の集中講義「心と身体」の受講がきっかけだ。その中のヨーガの授業で「人生を四つに分ける」古代インドの人生論が印象に残り調べると、「四住期」の話だと分かった。その関連本の一冊が『林住期』だった。

 人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」と四つに区切り、それぞれの生きかたを示唆する。「学生期」は二十五歳までで、心身を鍛えて学習し、体験をつむ時期である。「家住期」は五十歳まで、就職、結婚、家庭をつくり、子供を育てる。人生の前半戦であり、林住期のための長い助走期間ともいえる。そして七十五歳までが「林住期」、七十五歳以降が「遊行期」となる。本書には、人生のジャンプであり離陸である「林住期」こそ、人生のクライマックスでは、と記されている。

 ここで特に印象に残ったところを紹介する。

 「暮らしのためでなく働くこと」の章では、人間は生きるために働いている。生きるために働くとすれば、生きることが目的で、働くことは手段ではないのか。多くの人は、働くことが目的になっているために、よりよく生きてはいない、と記されている。さらに「人がジャンプするとき」で、「林住期」からは金を稼ぐために生きるのではなく、生きるために生きる。「これが現代人に残された数少ない冒険の一つでは」と提案する。

 二つ目は「息は鼻から、食物は口から」の章の、三年間咳が止まらない女性の話。病院で検査を受け、様々な治療を試みたが、医師からは異常なしと言われた。著者は女性の呼吸の仕方に問題があると気付いた。正しい呼吸法を教えると……という内容である。この章のキーワードは「気付き」だ。インドの古い言葉ではそれを「サティ」といい、「教え」とも、「経」とも訳されることがあるという。日々の小さな気づきのつみかさねが人の心と体を支えている。

 この章を読んで、筆者の中の小さなサティは、『林住期』との出会いだと思った。講義を受講していた全員が「四住期」の教えが気になる訳ではない。筆者が「四住期」の魅力に気づき、自ら行動をしたことで『林住期』を知ることが出来た。

 さらに、この春で大学を卒業し社会人の仲間入りをするにあたり、先ほど挙げた「人がジャンプするとき」が心に響いてきた。ほとんどの仕事は週休二日制だ。勤労が国民の義務であることは承知しているが、働くために生きているようで明るい未来が想像できない。筆者は将来的に、週三日働き四日間優雅に休む人生を送りたいと本気で計画している。人生の目標を立て行動ができるのは自分しかいない。どんなに現実離れした目標であっても、計画したもの勝ちである。

 著者はあとがきで「人生をやり直すというのではない。一から始めることでもない」「「林住期」のさなかにある人びとだけではない。やがて「林住期」を迎える世代、そして将来かならずそこに達する若い世代の、明日への目標としてこの本は書かれた」と記している。これを読んだ時、「学生期」の自分が『林住期』を読むのは早いのでは、という考えは吹っ飛んでいた。

 別の章には「「林住期」を、自分の人生の黄金期として開花させることを若いうちから計画し、夢み、実現することが大事なのだ。スポーツもそうだが、後半のゲームをどうつくるかにすべてはかかっている」とある。ヨーガの先生は「七十五歳過ぎて病院通いをする毎日ではなく、あなたたちには遊んでほしいから、今から身体を整えることを意識することが大切」と仰っていた。二十三歳でヨーガと『林住期』に出会えた筆者は幸運であると心から思える。大学生はまだ人生の助走期間である。

この記事を書いた人

★もりもと・ひろき=大阪国際大学人間科学部4年。

3年連続で掲載していただきました。文章を書く喜び、掲載の幸福感をありがとうございました。

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