夫婦と子ども一人の幸せな家庭の日常に一本の電話が鳴った。「――もし、もし」と今にも途切れるような頼りない若い女の声を聞いた佐都子は思う、幽霊のような声だと。女は「カタクラ」と名乗った後、佐都子に告げた。「子どもを、返してほしいんです」。この一文に筆者は意表をつかれた。少し前では佐都子・清和夫婦とその子ども、朝斗の穏やかな日々のエピソードが描かれていた。どこにでもいそうな家族の日常の物語のはずではなかったか。しかし朝斗はこの夫婦の血を分けた子どもではないらしい。
これは特別養子縁組を介して繋がった人々の物語だ。中学生の片倉ひかりは恋人の巧との間に子どもができてしまう。そこで特別養子縁組を利用し、不妊治療がうまくいかない佐都子・清和夫婦に子どもをあずける。周囲と打ち解けられず次第に孤立していくひかりの姿、子どもとの生活を楽しむ夫婦の様子、全く別の二つの人生が奇妙な縁で再び繋がっていくのだが……。
私は辻村作品を読む時、必ずもやもやした不可解な落ち着かない気分にさせられる。それは例えば『傲慢と善良』におけるヒロインの行方、『かがみの孤城』における鏡の向こうにある鏡の城。そして今回取り上げた『朝が来る』の「カタクラ」と名乗った女の正体だ。女は「子どもを返してください」と言った後、交換条件として子どもに代わるもう一つの要求をあげた。「お金を、用意してください。そうすれば、私、諦めます。――私のこと、バレたらいろいろ、困るんじゃないですか。用意してもらえないなら、私、話します。あなたの周りに」。この言葉を聞き、朝斗の育ての母は言う「あなたは一体、誰ですか」。ここであえて物語の種明かしをすれば、「カタクラ」と名乗る女は、朝斗の産みの親である片倉ひかり本人だった。ではなぜひかりがこのような脅迫めいたことをするに至ったのか。
読み進めていくと、出産間近のひかりが自身のお腹にいる朝斗に語り掛ける場面がある。「もうすぐだよ。頑張ろう」とお腹に手を置き、声をかけて道を歩いていたひかりは、太陽が輝きを放つ空を見上げて、立ちすくむ。「きれいだねぇ、ちびたん」。気づくと声が出ている。彼女にとってお腹の中にいる子どもは、特別養子縁組を利用して引き渡すものの、自由を拘束する邪魔な存在ではない。愛しい存在なのだ。出産後、朝斗の引き取りを終えたひかりと栗原夫妻は二度と出会うはずはなかった。脅迫という奇妙な縁で繋がるまでは。
ひかりはとてもまっすぐで純粋な女性だと私は思う。一途なほど純粋な彼女だからこそ困難な問題を抱えてしまう。読んでいるとひかりに対して呆れたり、つらくて読むに堪えない部分もある。それでも彼女から目が離せなかったのは、彼女の魅力が危ういまでのけなげな生き方にあるからだと思う。一人一人がそれぞれに真剣で切実な願いや思惑を持っている。それだからこそねじれる人間関係。私はその人間的な葛藤のドラマに目を離せなかった。
★こばやし・ひろなお=大東文化大学社会学部2年生。趣味はビリヤードと読書。今年の目標は日商簿記3級と宅地建物取引士資格を取得すること。