【ほんまにオレはアホやろか/水木しげる】 評者:三和優吾(北海道大学大学院環境科学院修士課程1年 )

私はとても良い子だったと思う。一生懸命に勉強をして、良い高校へ進学し、浪人までして国立大に入学した。あまり勉強は好きではなかったけど、みんなが私をチヤホヤしてくれるからつい嬉しくなって、大学院まで進んでしまった(ああ、しまった…)。
 
脇目も振らず頑張って、自らを省みたときに著しい虚無を感じることはないだろうか。私は今まさにそんな感じ。特に「あなたはどんな研究をしたいの」と問い詰められると答えに窮す。好きって一体何だろう。
 
私は卑屈になると図書館に籠もる。私の観察によると、およそ読書家は乱読型と精読型に分かれる。私は前者だから、なんでも読む。そして読んだ本はまず繰返し手に取ることはない。
 
でも、この本だけは繰り返し読んでいた。
 
本書は水木しげるの自伝である。水木しげるは後に漫画家として大成するが、出来の良い子どもではなかった。学校も仕事もまともに勤まらないため両親は「この子はアホちゃうか」と頭を抱えてしまう。しかし水木サン(水木本人が、自分を「水木サン」と呼んでいる)自身は違った考えを持っていたようだ。
 
水木少年はガキ大将の仕事の合間に趣味に没頭する。野山で昆虫の観察をしたり、近所のお婆さんから伝説や妖怪の話を聴いていた。青年期には宝塚の少女歌劇や動物園に通った。そして日常の世界と違う「異界」に強く心が惹かれたと振り返っている。
 
水木サンは「異界」から世界の有り様を学んでいく。そして虫にもいろいろな種類があるように、人間にもいろいろな種類がある。型通りの生き方でなくても、大地の神々がきっと自分を生かしてくれるという信念に達する。
 
この「生かされる」という信仰は本書に通底する。この「信仰」は現代の若者にとって得がたいものだと私は感じた。
 
例えば私は今まで誰かに認められる事に人生の喜びを感じていた。しかし裏を返せば皆の期待に添わなくては、という不安を抱えていた。その結果、私は自分の好きと世間の評判とが見分けられないカラッポ人間になってしまった。
 
しかし現代においては皆が空気を読んで一緒に生き過ぎている。また世間の枠組みから外れた人に極めて冷たいと思う。
 
青年水木が現代に蘇れば間違いなく問題児だ。言い換えるなら戦中戦後の混乱した時代と水木サンの生き方があっていたとも言える。しかし私は現代にこそ水木サン的思想が必要だと思う。
 
人は一人では生きられない。でも必ずしも皆と一緒に生きる必要もない。世間と違った好きを突き詰めて生きることも出来る。
 
私は今さら好きを見いだすことは出来ないかも知れない。しかし皆の期待という呪いから自由になっても許されるのだと本書から教えられた。

この記事を書いた人

★みわ・ゆうご=北海道大学大学院環境科学院修士課程1年。専門は農学および植物学。科学研究から農政や社会問題に関心が移る(しかし科学も捨て難い!)。最近読んだのは円地文子著『白梅の女』。

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