【美丘/石田衣良】評者:古井幸志 (名古屋学院大学現代社会学部現代社会学科2年)

 

「すべてをきいて、ぼくは迷わなかった。きみと死ぬのではない。きみと生きるのだ。」

 主人公の「太一」は平凡な大学生活を送っていた。ある日、いつもの友達と大学の屋上にいると、転落防止用のフェンスを乗り越えようとしている女の子(美丘)を発見する。自殺しようとしていると思った太一が止めに入り、自らもフェンスを乗り越える。すると彼女は「もっときれいな空が見える場所がある。そう思ったらじっとしていられなくて。」と話した。太一が二度目に美丘に会ったのは美丘が友人の彼氏を寝取ったことによる「カフェテリアの対決」の場面。その後「いつものグループ」に加わった美丘の強烈な個性と自由奔放さに、太一は心惹かれていく。麻里との三角関係などいくつかの問題を越え、ようやく一つになれた二人だが、太一は美丘がいつ発症してもおかしくない不治の病に冒されていることを知る。

 本書は不治の病に冒された少女が「死」に向かっていく物語だ。このように聞くと病弱な女の子の悲しみ溢れる話を思い浮かべてしまうかもしれない。しかし、『美丘』は違う。死へ向かう物語でありながらも、「生きる力」を与えてくれるのだ。もちろん、二人の究極の愛も本書の魅力である。ここでは詳細は伏せるが、いつ死へのカウントダウンが始まるか分からない中で、命を燃やし尽くす二人の愛には、心打たれるものがある。

 本書が他の難病ものの小説と一線を画している要因はなんなのだろうか。それは美丘の生き様にあると思う。例えばこのようなシーンがある。いつものグループで開催したクリスマスパーティーの事だ。プレゼント交換でもらったDVDを美丘はこんなの欲しくないと言い放ち、麻里宅のクリスマスツリーを蹴り倒して出ていってしまう。他にも「弱いやつを泣かすのは、いつだっておもしれー」とケンカを仕掛けてきた男たちと殴りあったり、性に対してオープンであったりと一見、破天荒で常識外れな印象を与える。しかし、それは自分に正直に生きている証ともいえる。嫌なことを嫌と言えること、自分のやりたいことをやること、これを体現出来ている人はどれくらいいるのだろう。私たちは命に終わりがあることは頭では分かっているが、本当の意味で理解している人はなかなかいない。若ければなおさらだ。美丘は生きていることは奇跡だと実感しているからこそ今を全力で生きているのだ。

 この本を読み終わった時、心の底から自分に正直に、悔いのないように生きているかという問いかけが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。というのも新型コロナウイルスの影響で授業はオンラインになり、人に会えない状況が続いて、ダラダラと毎日が過ぎていたからだ。そんな鬱々とした日々を過ごしていた筆者には美丘の言葉が刺さった。「時間は永遠にはない。わたしたちはみんな火のついた導火線のように生きてる。」

 そうだ。生きているのは当たり前ではない。一度しかない人生、どうせなら最後の日に大爆発できるように、今しかできないことを全力で楽しもうと思う。

この記事を書いた人

★ふるい・こうしん=名古屋学院大学現代社会学部現代社会学科2年。関心があることは筋トレ。初めてから1年ほど経ちましたが、成長できている実感があって楽しいです。何を目指してるの?とかは聞かないでください。

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