【イルカも泳ぐわい。/加納愛子】評者:石井真悠(イシイマユウ)(大阪国際大学経営経済学部3年)

 

 私は、お笑い芸人が好きである。お笑いで脳のほとんどが構成されている人が大好きである。お笑い芸人はそういう人の集まりだ、多分。

 笑いを生み出す側は、お客が考えるより、笑いについて考えていると思う。漫才のツッコミ一言でも、間とテンポを試行錯誤するという話をよく耳にする。どんな分野にも私が想像もできない程の努力がある。

 ただ必ずしも、その裏側を受け手が知る必要はなく、テレビを見たり、ラジオを聴いたり、劇場に足を運んだり、目の前に起こっている出来事が面白ければ笑うし、面白くなければ笑わない。それがたとえ意味不明な内容でも、何が面白いのか分析せず、面白ければただ笑う。単純にそれでいい。この本も、同様だ。

 本書は、お笑い芸人Aマッソの加納愛子によるエッセイ集。エッセイ40篇が収録され、初短編小説も加えられた一冊だ。本のタイトルになっている「イルカも泳ぐわい。」は、漫才師の「高僧・野々村」が漫才中に発した何気ないセリフであり、加納曰く、漫才において「言わなくてもいい」言葉だ。「なんの脈絡もなく発せられたこの言葉に、得もいわれぬ漫才の色気を感じた」という加納の、発想と思考が全く読めない。でも、本書全体に漂う加納愛子節が、大好きである。

 各エッセイのタイトルは、〈七瀬〉〈「チョロギです。美味しいです」〉〈アイデアの初日感〉〈「愛子ほら弥勒菩薩の絵あげるわ、」〉などなど。タイトルだけ見ても言葉遣いが独特で、「加納愛子学」があっても不思議ではないと思う。現在、研究者無し。

 この本はジェットコースターに乗って、今自分は下を向いているのか上を向いているのか分からず、気づいた頃にはもう終わっていて、楽しかった余韻が残る中、落とし穴に落ちてどこまで落ちていくのかと思ったら、いつもの日常に戻っている、そんな感覚。と書きながら、自分でもよくわからない。

 話の筋は通っている気がするが、理解できそうでできない、途中何を読んでいるのかわからなくなる。でもどんどんページは進み、笑みが一つ二つ、三つ、四つ、飛び跳ねて、溢れる。

 中でも好きな話は、〈「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」〉。これは、小学生の加納が学校から帰ってきた時に聞いた、二つ上の兄が家の前のホースで友達と水遊びをしながら、笑い転げ発した言葉である。「兄ちゃんは言った。/「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」/友だちは言った。/「そやねーん!」」。その時、加納は家のドアを開ける手が止まり、「言ったことのない言葉」と思ったらしい。この一篇の中で加納は、コントで女が医者を演じると女医になってしまうことの、「当たり前を、うまく咀嚼できない」と書いている。「私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ」。加納愛子の魅力や考え方が、この一文に詰まっていると思う。

 私は、「イルカも泳ぐわい。」というセリフに魅力を感じ、それを語り、本のタイトルにする加納愛子という人間の脳内を、この本を通じて遠くから覗いている。

「暇やし、ちょっと見せて。おもろっ! 好き! 何言うてんねん!」、そんな感じだ。

この記事を書いた人

★いしい・まゆう=大阪国際大学経営経済学部3年。音楽が好きで、ジャンル関係なく好きなアルバムを聴いています。最近、AppleMusic で「ぐっだり」というテーマでプレイリストを作って聴いています。

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