日本には死刑制度がある。そして「死刑」が必要だと考える人もいれば、廃止すべきだと考える人もいる。しかし、なぜ必要なのか、どうして廃止すべきなのかを根拠を持って話せる人は少ないのではないだろうか。
著者は以前、「死刑は(どちらかと言えば)必要だ」と考えていた。しかし現在は「死刑廃止」を支持している。なぜ、どのようなことが理由で今の主張に変わっていったのか。
他人によって自分の親しい人の命が奪われたとき、絶対に加害者を許せないと思う感情や、極刑を願うのは、自然な気持ちだろう。この点についての著者の立ち位置は最初から最後まで変わらない。では何が著者の気持ちを「死刑廃止」支持へと動かしていったのか。その理由を、いくつか例を挙げて述べている。
冤罪の可能性、死刑執行の決定が選挙の時期や大臣の任期といったことに左右されてしまう事実、「死刑になりたかった」という犯人がいることからの犯罪抑止効果に対する疑問などは、見聞きしたことがある議論ではないだろうか。
また、暴力によるガバナンスともいえる死刑は、議論を通じた合意を基本とする民主主義と相容れないのではないかということ、加害者の過酷な生育環境を無視して、死刑により存在を抹殺し、何もなかったことにするのは、国や政治、社会の怠慢ではないかとも述べる。さらに、法律では人を殺してはならないとしながら死刑を認めるのは、「何か特別のことがあれば、人を殺しても仕方がない、そのための計画をみんなで話し合ってもいい」ということと同義であり、この発想自体に根源的な誤りがあると批判する。
それだけでなく著者は、取材を通じて被害者(被害者遺族)と向き合う中で生じた新たな疑問を提起する。それは「私たちは、被害者の感情を、ただ犯人への憎しみという一点だけに単純化して、憎しみを通じてだけ、被害者と連帯しようとしている」のではないか、ということだ。
愛する者を失った被害者家族の苦しみは、「犯罪被害者として認識されながら生きることの困難、親族間での受け止め方の違い、対立、また孤独や寂しさなど、ともかく、人によって様々」で、時間をかけて徐々に気持ちに折り合いをつけ、ようやく至ったゆるし、といった心の機微を一切無視して、単純に憎しみを通じてだけ被害者と連帯しようとするのは違うのではないかと指摘する。
被害者に必要なのは、憎しみによる連帯ではなく、悲痛からどのように立ち直っていくのかなのではないか。そして現状では、このような被害者へのサポート体制を著しく欠いており、本来、死刑制度廃止と被害者への金銭的・精神的ケアは両輪であるべきだと述べる。
最高刑が死刑とされているからこそ、加害者が無期懲役となったときに、被害者側としてはなぜ極刑ではないのかという憤りや反発を覚えるのではないか、という指摘も鋭い。実際に「いったん制度がなくなり、国家として市民を殺さないという原則ができると、それが前提となるので、深刻な犯罪が起きても、死刑にすべきだという発想自体が出てこない」と述べる。この視点はコペルニクス的転回といえるかもしれない。
本書は大阪弁護士会主催の講演会の記録をもとに加筆修正したものであり、150ページに満たないコンパクトな書籍だが、死刑制度の是非を検討するにあたり重要な論点がいくつも提示されている。それは机上の空論ではなく、著者が実際に足を運び、人と対峙し、会話をした中から出てきたものだ。さらに「加害者の人権」という側面だけではなく、「被害者の心情」に光をあて、丁寧に著者自身の結論をたぐり寄せている点は、これまでの死刑制度の議論とは違い新しい。
死刑制度については、なかなか実態を知る機会が少ないが、本書はこの問題を考えるにあたり、いくつものヒントを与えてくれるだろう。
★わかつき・まさえ=日本大学通信教育部4年。
中世キリスト教思想や歴史・文化を研究する目的で現在学び直し中。