あらゆる権威を否定し、存在の価値の線引きを拒絶し、〈他者〉との出会いを希求する本書は、その言葉の「価値」を確信して書かれたものではない。具体的な存在から発せられる言葉は、どれとして同じものはなく、ゆえに誰が成すどのような抵抗の表現にも意味があるのだとして、傷口を開いてさらけ出すようにして紡がれた、抵抗のための言葉の集まりなのである。そして著者は、「あなたも書くべきである」と呼びかけ、読者を扇動する。表現することに、「価値などなくてもよい」。それならば、私も書いてみたい、と思った。
批評的エッセイ集である本書は多岐にわたる問題を扱っているが、その基盤となっているのは、副題「アナーカ・フェミニズムのための断章」にもあるように、アナーキズムとフェミニズムの思想である。権力関係を批判し合意形成を目指すアナーキズムと、男性中心主義を批判し脆弱な生を肯定するフェミニズムは、「弱い立場に置かれた生を広く巻き込んだ革命」に向けた本書の理念的両輪となっている。
「布団の中から蜂起せよ」という表題は、そのような精神性の表れだと言える。本書で目指されているのは、なにか非日常的な「革命」ではない。むしろ、運動内にも頻繁にみられるような行動偏重主義を批判し、布団から起き上がることすらできない、苦しい葛藤の中で生きること自体を、本書は「革命」と名づける。その名づけは、これまで数のうちに入れられてこなかった抵抗を拾い上げ、あらゆる存在の個人史の中にも革命の物語を立ち上がらせるものとなるだろう。それは既に始まっている連帯を予感させてくれる。
国家やそれを維持するための制度を批判する本書はまた、他者とのアナーキーな応答関係に空間を開こうとしている。著者は、「歯車」としてそこに問答無用で参与させられる儀礼空間を嫌い、水を差そうとする。「ルールに従う行為は、免責を意味する」とし、そのような形式から外れ、その場にいる存在の視点を考慮した、個別具体的な振舞いに焦点を当てている。例えば、人の少ない電車で誰にも迷惑をかけず、快適さを求めて寝そべっていた人について、「「電車の乗り方」を攪乱した」と評している。ルールの順守によってではなく、目の前の他者やその場にあるものによって自らが、そしてその行動や振る舞いが決定されていく、極めて他者依存的な場の構築が、著者の目指すところのアナーキズムであるのだろう。
そしてその場に目に見えて存在する者の声だけではなく、死者たちの声も、「弱い人たちの歴史」に光を当てて聞き取ることを試み、さらにはセルフインタビューという形で、自分自身の内部の、理解不能な「他者」の声にも敏感に耳を傾けている。声がきかれるためには、痛々しいまでの敏感さが要求されるのだということを、本書はその言葉の端々に滲ませている。
他者ありき、の偶発的な応答関係に身をゆだねることは、その他者の声に合わせて変容していく可能性に、自己を晒すことだ。それは怖い。しかしそのなかでしか私たちは出会うことができない。本書はそのような、痛みを伴う出会いに、そして連帯の可能性に、私たちを誘っている。
★せいみや・ゆい=東京大学大学院総合文化研究科修士課程1年。「価値などなくてもよい」をお守りに、ミニコミ製作中。どろどろの洗面器に溶けていきそう。