【臨床医学の誕生/ミシェル・フーコー】評者:須磨千草(金沢大学医薬保健学域医学類3年)

 本書はフランス西部ポワチエ生まれの哲学者ミシェル・フーコーによって書かれた。本書の二年前に出版された『狂気の歴史』では精神医学の歴史に焦点を絞っていたのに対して、本書では医学全般に視野を広げている。

 一九六三年刊行の本書は、精神科医の神谷美恵子によって一九六九年に邦訳され、出版された。これがフーコーの著書の、本邦における初の刊行となる。神谷はフーコーの『精神疾患と心理学』も翻訳しているが、後に「ミッシェル・フーコーとの出会い」(『本、そして人』に収録)で、フーコーの詩的で省略された文章はフランス人でも読解が困難であると、翻訳にあたっての苦労を回想している。

 「この本の内容は空間、ことばおよび死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである 」。本書はこの一文で始まる。フーコーが挙げている四つの要点の中で、彼は特に臨床医の「まなざし」の記述にページ数を割いている。医師は訪ねてきた患者を様々な視点から診察し、何が原因でその症状を呈しているかを突き止めなければならない。フーコーはこれに必要な「目利き」のことを「まなざし」と称しており、この「まなざし」が歴史と共に、どのように変化してきたのかについて、特に注意深く考察をしている。

 フーコーによると医学的な「まなざし」とは、臨床医学の現場での経験を持って培われるものである。「まなざし」という言葉が示すように、それは歴史上長らく視覚のみで行われてきた。ここに聴診、あるいは触診などで得られた所見、すなわち聴覚や触覚が加えられるようになり、「感覚的三角測量」、「視覚―触覚―聴覚の三位一体」が成立するようになったのは、つい一八〇〇年頃のことである。

 フーコーによると 一八世紀頃までは、「医師は、あらかじめ出来上がった疾病分類学の平らな図表をあたまにして」患者に接していたという。つまりこの頃の診察とは、患者を既存の定型型に当てはめるものであり、これは患者の徴候を見逃す、「自己破壊的な、循環的な、自己閉鎖的な構造」であったとフーコーは批判する。一九世紀になり病理解剖学を通して、死者の体の中を見て、どこに病変部位があったのかを理解する視点が加えられるようになった。これらを通して「まなざし」は、単純な疾病分類から、上級医と共に患者を観察し、指導を受ける中で培われるものと変化していった。現在の医学教育はまさにこの文脈で行われている。

 しかし昨今の医療現場は、AIが導入されビッグデータの活用など、変化が目まぐるしい。また、病理解剖学だけでなく、細胞や遺伝子レベルでの解析も進んでいるため、さらにこれまでの「まなざし」が大きく変化しつつある最中にあるといえるだろう。

 筆者も医学部に在籍しているが、 医学生は、与えられた目の前の勉強をこなすのに必死にならざるを得ない時期が長い。しかし、医学の歴史とその成り立ちを知ることは、自分の学んでいる医学を客観的に捉える視座を得ることであり、医学の勉強と同等に重要なことである。本書は、医学の成り立ちや変化に興味を持つ全ての人に向けた本であるが、特に医学を学び始めた学生に薦めたい一冊である。(神谷美恵子訳、斎藤環解説)

この記事を書いた人

★すま・ちぐさ=金沢大学医薬保健学域医学類三年。上智大学で英語、国際政治、国際協力を専攻。上智大学を卒業後、医学部に編入学。現在はスリランカの教育支援に力を入れている。趣味は読書、ワインなど。

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