【FUZZY-TECHIE/スコット・ハートリー】評者:水落星音 ( 一橋大学大学院社会学研究科修士2年)

「小説や詩を読んだり、古代哲学の討論を読み返したり、フランス革命史、あるいは離島のコミュニティーの文化を研究しても、今日のようなハイテク主導経済でまともな職にはつけそうにないし、将来も真っ暗だ」

 これは2014年に大きなインパクトをもたらした『ザ・セカンド・マシン・エイジ』の説く内容である。こう言われてしまうと、人類学専攻の大学院生としてはムッとする反面、多少の自覚もある。理系でないのに大学院へ行く意味はあるのか、という空気は日頃から感じているものだ。

 本書の著者は、そのような風潮に堂々と立ち向かっていく。「ファジー」とは「曖昧な奴ら」を意味するあだ名で文系の学生を指し、「テッキー」は工学やコンピューター・サイエンスを専攻する理系の学生を指す言葉だそうだ。本書では、イノベーションにおいて、理系のみならず、文系との融合がいかに重要であるか、取材と調査に基づく数多くの具体例と共に語られている。両者は、どちらが優位ということではなく、互いに必要不可欠な存在である。

 例えば、スティーブ・ジョブズは、デザインの人文学的側面を徹底的に掘り下げて、マッキントッシュの開発に活かし、ザッカーバーグは、心理学での学びをFacebookに活用した。また、Slackの創業者であるバターフィールドは、哲学から多くのことを学んだと語り、日産自動車では、自動運転車の開発に人類学の研究手法が用いられている。「ファジー」な教育を受けた人々が、技術の専門家が見逃していた諸問題に気づき、革新的なアイデアを持って、様々な分野間をつなぎ解決していく。著者いわく、彼らがもつ批判的思考力、読解力、論理的分析力、論証力、そして論旨明快で人々を納得させるコミュニケーション力といったスキルは、社会で働くうえでの重要な基礎となる。

「テッキー」の分野の例として、プログラミングは、外国語と似たところがある。もちろんそのスキルを鍛え上げることは重要だが、それはアイデアを実現するためのツール的側面が強く、アイデアがなければ意味を成さない。伝えたいことがなければ外国語は使えないし、目的がなければコードを打つことはできない。一方で、例えアイデアがあったとしても、実現する手段がなければそこで終わってしまう。「ファジー」と「テッキー」の思考の双方があってこそ、革新を生み出すことができる。

 ただ、本書において気になるのは、「機械が人間の役割に取って代わるというよりは、機械が人間に良く奉仕する時代になりそうである」という言葉や、「機械は人間性への影響を常に配慮しながら発達する必要がある」といった文言である。

 機械は、人間が管理し制御できるもの・していくべきものであると思われがちだが、果たして本当にそうだろうか。ある目的を持って作られた機械を、人間が使用することで、その作用が元々の目的とは違うものに変容することがある。その要因となるのは、人間が一方的に制御できるものではなく、機械や人間など様々なものの絡まり合いによって織りなされる相互作用だという議論がある。機械に対して、支配する/支配されるという二項のみで語りつくすことはできない。本書でも、理系と文系で対立するのではなく、両者の橋渡しが重要だと幾度も強調されている。我々は「ファジー」と「テッキー」の間の境界を、ファジーにしていく必要があるだろう。(鈴木立哉訳)

※本書は編集部の選書で「キャンパス特別編」として執筆したものです。

この記事を書いた人

★みずおち・あかね=一橋大学大学院社会学研究科修士2年。社会人類学を専攻し、占いを取りまく人々の言動や実践について研究中。語学が好き。

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