私たちは多様性を尊重する社会を生きているが、実際に他の人種や民族、肌の色が違う人たちが混在して暮らす地域のリアリティーを、どれだけ正確に把握しているだろう。今の時代は、インターネットで簡単に情報を入手することができる。しかしリアルとは、指先で網羅できるほど狭く浅くはないと思う。
本書は、イギリスで暮らす著者と彼女の息子(父はアイルランド人)の日常から、多様性やアイデンティティについて考えるノンフィクションである。本書の中で、息子が「多様性っていいことなんでしょ?」「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」と著者に尋ねる場面がある。それに対して著者は、「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」。だけど「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」と答える。
本書に描かれる息子の中学生活には、日本で暮らす私たちにとって新鮮かつ不意を突かれるエピソードが登場する。例えば下校時、息子が友人を待っていたら、知らない車が前に停まり、男が窓を開けて「ファッキン・チンク」と叫ぶ。あるいは、差別意識の強いダニエルという同級生が、黒人の少女に「ブラックのくせにダンスが下手なジャングルのモンキー」と陰口をたたき、それを聞いた息子は「彼はレイシストだ!」と激怒する。著者は「周囲にそういうこと(差別発言)を言っている人がいるからだろう」と考える。
常識や偏見とは、環境によって形成されるものだ。私たちが当たり前だと思っていることが、一歩外に出れば、当たり前でなくなることがある。そんな不安定な世界で、無知なまま固定観念にとらわれ続けることは、恐ろしいことだと思う。別の考え方があることを疑いもせずに、知らないうちに他人を傷つける恐れがあるからだ。
息子は学校の試験で「エンパシーとは何か」と問われ、「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えている。これは「他人の立場に立ってみる」という意味の英語の定型表現だ。立場は存在する人間の数だけあるから、これを実践することは困難だ。でもこの意識を持っているか否かで、他人に対して敬意を持てるかどうかが変わってくる。些細なことであるとも思うが、自分とは違う人と接する上で重要である。
さらに、息子は己のアイデンティティについても考える。自分が暮らす地域では「ファッキン・チンク」と差別されることのある息子だが、日本に帰省すると、今度は日本語が話せないという理由から、日本人として見てもらえない。
私は日本人の父とフィリピン人の母を持つミックスだ。母とは物心つく前に別れてしまい、ずっと日本で育ってきたため、日本語に不自由はなく、言語の違いで差別的発言を受けたことはない。しかし、私はミックスであることに負い目を感じていた。父に「お前は日本人だ」と幼少の頃から言い聞かされてきたからだ。その影響で、私は他人に自分がミックスであると話すことが怖くなっていた。まるで自分が悪いことをしているような気持ちになっていた。「私は日本人だ」と思うようにしていたが、半分フィリピンの血が流れていることに変わりはなく、このギャップが中学時代の私の大きな悩みになった。
私はアイデンティティについて考える息子を、羨ましいと思った。私は悩みはしたが、息子のように多様性に関心を向けたり、アイデンティティについて真剣に考えたりはしなかったからだ。息子は「日本に行けば『ガイジン』って言われるし、こっちでは『チンク』とか言われるから、僕はどっちにも属さない。だから、僕のほうでもどこかに属している気持ちになれない」と言っている。私はどちらに属すかなど、考えたこともなかった。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』とは、息子がノートの隅に書きつけた文だ。イエローは日本人、ホワイトは白人。ブルーとは悲しみを示す表現であるが、息子は怒りと勘違いしていたと話す。このブルーとは悲しみなのか怒りなのか、どちらの意味で息子が書いたのかは、最後まで分からない。
★ふくどめ・まい=二松學舍大学文学部国文学科1年。好きな作家は重松清。ペットの犬と過ごす時間が一番好き。今は漢字検定二級取得を目指して勉強中。