【52ヘルツのクジラたち/町田そのこ】評者:遠山梨沙子(神戸松蔭女子学院大学文学部2年)

 その不思議な表紙絵と、初見ではどのような物語なのか想像のつかないタイトルに心が惹かれ、本書を手に取った。「52ヘルツのクジラ」とは他の鯨からは聞き取れない高い周波数で鳴き、誰にも届かない歌声をあげ続けている、「世界で一番孤独なクジラ」の存在からつけられたそうだ。そのひどく悲しい由来を知った時、私は胸騒ぎがした。

 物語は2つの軸で構成されている。母と義父から虐待を受けてきた主人公・貴湖は、芸妓をやっていた祖母がかつて住んでいた、小さな海辺の町に越してくる。都会からやってきた、垢抜けして定職についていない貴湖は、あらぬ噂や住民からのお節介に疲弊する。そんな貴湖の心にはいつも「アンさん」という存在がいた。苦しい時には、かつて大好きだった母ではなく、その名を呼ぶようになる程、アンさんの存在は大きかった。そんな貴湖が限界を迎えて涙している時、一人の少年と出会う。その少年もまた母親から虐待を受け、祖父からは無視されていた。家族に「ムシ」と呼ばれ、言葉を話すことが出来ない少年。そんな自分と似た境遇の少年に貴湖は、自分が眠れない夜に聴いている52ヘルツのクジラの声を聞かせた。やがて名を知らぬ彼のことを「52」と呼び、家族から匿って共に過ごすようになる。そして貴湖は、少年がかつて一緒に暮らしていた叔母の家がある北九州へと向かう。

 もう1つの軸は過去にさかのぼる。五年前、貴湖が二十一歳の時に義父が難病を患ってしまう。貴湖は義父の介護を、一人で背負うことになる。そんな状況でも、義父と母の貴湖に対する態度は相変わらず辛辣なものだった。心身ともに弱っていく貴湖の頭に、「死」という選択肢がよぎる。そんな貴湖を救ったのが、高校時代の友人・美晴と、アンさんである。アンさんと友人たちの支えによって、実家から出て、人生に対して前向きに考えられるようになった貴湖。だが、ある事をきっかけに、貴湖とアンさんの関係が拗れていく。

 本書は虐待、DVや介護問題、トランスジェンダーのテーマを取り扱っている。私はこれまで、このような暴力や苦悩とは無縁の人生であった。本書を読んでいる間、身勝手な理由からの暴力や心無い言葉に何度も苛立ちを覚えた。特に義父の病状が悪化した時、貴湖に対し母が「こいつが死ねばいい」と泣きながら言う描写がある。ゾッとする以上に深い悲しみに飲み込まれそうになった。それは、貴湖や52が可哀想だというような単純なものではない。形は違えど、人はみな何かしらの孤独や弱さを抱えているのだと感じた。そして、その孤独や弱さが人を追い込み、やがて暴力や酷い言葉を引き起こしてしまうことに虚しくなったのだ。

 本書には「魂の番」という言葉が出てくる。愛を注ぎ注がれる存在。無責任な同情や憐みは必ずしも人を救うわけではない。心の底から分かり合える存在。もしそんな存在に出会えれば、悲しみはなくなるのだろうか。

 今もどこかで、もしかしたらすぐ傍で誰かが聞こえない52ヘルツの声を上げているかもしれない。その声は同じ悲しみを知る者にしか聞こえないのかもしれない。それでも、聞こえない声を上げている誰かがいることを、思うことが出来る人間になりたい。本書を読んで、そう思わずにはいられない。

この記事を書いた人

★とおやま・りさこ=神戸松蔭女子学院大学文学部2年。

最近はオンラインで英会話を受講しています。英語や文化を学べるだけではなく、めずらしい趣味や経歴の先生が多くて、自分の世界が広がりました。

週刊読書人2022年1月7日号掲載(データ版購入可能)

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