心が苦しくなるようなニュースなどを見ているとき、多くの人々が被害者に対してかわいそうだと感じ、加害者に対してはひどい人間だと、無意識のうちに考えるのではないだろうか。しかし第三者が考える事実は真実ではない、かもしれない。当事者にしかわからない真実には目を向けない方がずっと楽なのだと思う。
しかし、目を背けたが故に誰かを傷つけていたら? 少しでも多くの人にとってこの本を読むことが、その「誰か」を考えるきっかけになってほしいと思う。
この物語は15年前に起きた「幼女誘拐事件」を軸に、今を生きる被害者と加害者、そして彼らの周りにいる人々を描く。
父親が病死し、彼が全てだった母親は、その悲しみを埋められないまま、当時小学生だった娘の更紗を置いていなくなってしまった。それ以来、叔母の家に預けられた更紗は、今までの幸せとは全く異なる環境に居心地悪く感じていた。休日にお布団に入ったまま、出前のピザを食べて家族3人で大好きな映画を見たり、夕食を中断してアイスクリームを食べたり……周囲から風変わりだと思われても、これが正真正銘、更紗にとっての幸せだったのだ。
できるだけ叔母の家に帰りたくなかった更紗は、友達と調子を合わせて遊んだあと、ようやく自分の時間が取れると、再び公園に戻って本を読んでいた。若い男がまだいることを知っていながらも。ロリコンと呼ばれていたその男は、毎日お決まりのベンチに座って女の子たちを眺めていた。
そんな日々が日常化していたある日、雨が降ってくる。あんな苦しい場所には帰りたくないと考えを巡らせていると、男が傘を差し出して初めて話しかけてきた。そして、更紗は自分の意思でその男についていく。
その男の名前は文といった。更紗は父親とどこか似ている文に心を許し、共に生活を始めた。昼下がりの土曜日、家族3人で過ごした最後の日に見た、大好きな映画を文と一緒に見ながら、更紗は涙が出てきて布団の中で丸まった。それが更紗には負けのように感じられて悔しかった。しかし、布団越しに文が更紗の頭を撫でた瞬間、更紗の中でプツンとなにかが切れて、ダムが決壊したように涙が溢れ出した。
この出来事は後に更紗や文を苦しませ、2人は好奇の目に晒されていく。更紗は会う人会う人に、可哀想な子というレッテルを貼られ、自分は特殊な人間としか見てもらえないことを悟る。何度も何度も「文は悪くない」と訴えても、洗脳された被害者として扱われるほかない。文だって、経営者の父と教育熱心な母、何でもこなせる兄がいる家で自分だけが未発達な身体に対する劣等感を孤独に抱え続け、更紗と同じように苦しんでいたのだ。
更紗と文は、お互いと一緒にいる空間に居心地の良さを感じていた。
この本の魅力は「幼女誘拐事件の被害者と加害者」という言葉の裏に隠された、更紗と文の人生や心の葛藤を巧みな言葉で読者の心にわかりやすく届けてくれることである。「あのころの寂しさや怒りはわたしの心の中で静かに、言葉を持たない動物のように丸まって眠っている」。本文中にあるこの言葉は、いつ動き出すかわからない、鉛のようにずっしりとした更紗の苦しみをまざまざと映し出している。
年を重ねていくと、経験が増えて大抵のことは理解できるようになっていく。それは右往左往しながらも人生が順調である証なのかもしれない。しかし、一歩立ち止まってこの本を読んでみて欲しい。きっと、順調な人生のどこかで落としてしまった忘れ物を見つけられるだろう。
岩崎蒼生 / 津田塾大学国際関係学科1年
★いわさき・あおい=津田塾大学国際関係学科1年。最近は寝る前にラジオを聞くことにハマっています。パーソナリティの話が面白くてついつい夜更かしを…。