【アンドレ・ジッドとキリスト教/西村晶絵】評者:佐藤勇輝 (東京都立大学人文科学研究科フランス文学教室修士課程)

 本書はアンドレ・ジッドの「悪」に関する思想的展開を明らかにするものである。そのために、著者は「病」と「悪魔」に注目し、彼のテクストを読解していく。この作業からカトリック的社会に抗する「プロテスタント」の立場を取りつつも、「神」への信仰を保ち続けたジッドの思想的独自性が浮かび上がってくる。

 本稿では、「病」とキリスト教の関係、とりわけ「道徳」と化した「神の掟」がもたらす病(「神の戒律よ、あなたが私の魂を病ませたのです」、『地の糧』)に着目する。このモチーフはジッド自身のニーチェ読解を通じて深められ、『背徳者』が提起するジッド的キリスト者像に生かされている。

 『背徳者』の筋を簡単に紹介したい。主人公である歴史学者ミシェルは、結婚したマルスリーヌとともに北アフリカへの新婚旅行に出かける。その旅の最中、彼は結核に罹ってしまう。彼女の看病のもと回復したミシェルはそれまで人生の全てであった研究を軽蔑し、これまでの習慣や価値観とは異なる新しい生活を始めようとする。ただ、この過程で無理を強いられたマルスリーヌは流産の末、亡くなってしまう。その後、ミシェルは彼を縛っていたものから解放される。しかし、そのモラルは世間から受け入れられず、自由の使い道がわからないために苦悩する。「病」からの治癒が既存の道徳からの解放と社会からの拒絶に結び付けられていることが読み取れる。

 ミシェルの行動は容易には受け入れ難い。しかしこの彼の姿こそ、ジッド的なキリスト者ではないか。そしてミシェルが体現する姿に、ジッドのニーチェ解釈を通じたキリスト教教会への批判が読み取れるのではないだろうか。

 というのも、ミシェルの言葉に、拘束を脱して自らの生を謳歌しようとする意思を見出すことができるからだ。自分自身をキリスト教信仰の枠内に位置付けながらも、イエスの死後に生じた道徳や規則に縛られない生き方を追求しようとするミシェルこそ、ジッド的キリスト者なのである。そういったミシェルの姿に、イエスの教えに立ち返ることを唱えつつ、慣習や社会秩序に人々を縛り付けるキリスト教を攻撃し、人類の生の多様性を解放するジッド的ニーチェが反映されている。『善悪の彼岸』に記されたイエスの教え(「神の子として神を愛しなさい」)と『背徳者』のエピグラフ(「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは私を素晴らしいものとしてくださったからです」、『詩篇』)が、ミシェルの一見「インモラル」で「悪」とも思える姿に作用していることが明らかになるのだ。

 『背徳者』とジッドのニーチェ解釈とを関連づけながら、理想的な「キリスト者」には見えないミシェルの姿が、既存の道徳を揺さぶりイエスの教えに立ち返らせるためのモチーフになっているという逆説はスリリングで、文学作品がもつ思想的強度を強く感じさせるものである。

 作品批評の次元に留まらず、ジッドの多様な小説、評論、日記などの一次資料、そしてブレイク、ドストエフスキーに関するジッドの解釈まで、幅広く丁寧に読解し関連づけ、作家の重層的な思想展開をあとづける本書に感銘を受けた。

この記事を書いた人

★さとう・ゆうき=東京都立大学人文科学研究科フランス文学教室修士課程。

フランス文学・思想専攻。特に作家ジャン・ジュネと哲学者ジャック・デリダに関心をもっている。趣味は古書店めぐりとドラマ鑑賞。

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