本書は女性戦地レポーターであるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによるノンフィクション作品である。『チェルノブイリの祈り』などの著作をもつ彼女は、ノーベル文学賞を受賞している。最近ではウクライナ戦争についてベラルーシ政府とロシア政府を辛辣に批判している。本書では第二世界大戦に従軍していた約500人の女性の話を聞き、まとめ上げた。
戦争は悲惨なものである。しかしドイツの小説家レマルクが言ったように、「一人の死は死だが、200万人の死は統計上の数字でしかない」。一人の知り合いの死は周囲のみなを悲しませるが、よその国の100万人いや、1000万人の死であったとしても、我々にとっては統計上の数字に過ぎないということがしばしば起こる。特に日本のように平和な国であるならばなおさらだ。さらに、日本で女性は非戦闘員と扱われるため、戦争における言論という名のスポットライトは、男性の武勇伝にあてられることが多い。戦争とは、本書の表現を借りれば「男の遊び」であり、女性はその役割を奪われる。しかし実際のところ女性は、遊びではない残酷な悲劇のれっきとした被害者であり、彼女たちも前線で闘っている。この本は注目されたことのない、第二次世界大戦独ソ戦に従軍した彼女たちへのインタビューを、なるべく加工せずに生々しく描き出している。これまで知らなかった、興味をもつこともなかった、戦場での女性たちの物語である。
女の戦争には、男の戦争にない、リアリズムと感情がある。この本に出てくるほぼ全員の女兵士たちは、志願して戦争に飛び込んだ志願兵である。彼女たちは祖国を守るために、自分から戦争に飛び込んで、勇敢に銃を握り必要とあらば人も殺す。れっきとした兵である。しかし、男の物語はそこで終わるが彼女たちは違う。泥だらけで血だらけの戦場の中でもきれいな靴にあこがれ、祖国のために髪を切ったものの、自分なりのおしゃれにこだわる。このような〝戦争での日常的感情〟は、男の戦争にはない、読者の感性をも刺激するものがある。娘が不具になるくらいだったら死なせてくださいと祈る母の気持ちが、戦争に行けると嬉しそうに笑っている少女兵の姿が、戦場の、人の骨を砕く音が、獣のような悲鳴の聞こえる音が、女性用の下着をもらえたことに子供のようにうれしがる彼女たちの喜びが、我々には理解しきれるだろうか?
悲しいことに、この悲惨な物語は過去の出来事ではない。今ウクライナでも同じことが繰り返されている。この本でも当時ソ連が祖国であった、多くのウクライナ地域の女兵士たちが語っているが、同地で21世紀に同じことが起きている。ウクライナの女兵士がマリウポリのアゾフスターリ製鉄所でウクライナ兵の看護にあたっていたが、 残っていた民間人とともに退避する際、ロシア軍に拘束され捕虜にされた話はよく知られている。
しかし、もう一度繰り返すがこのような個々の事実を統計としてみる。一人一人に異なる悲惨な話があるのに、私たちは単純に一切れのニュースとしてしかそれを見ることができない。とても悲しいことだと思う。独ソ戦でそうだったように、ウクライナ戦争も終結したら、統計から〝人の話〟へと変わってくるだろう。その前にこの本を通じて、戦争での人の弱さと強さ、そして一人一人の物語を知ってみてはどうだろうか。「人間は戦争よりずっと大きい」。(三浦みどり訳)
★キム・ノア=明治大学政治経済学部政治学科3年。
韓国からの留学生で趣味は友達と討論することと、本についてしゃべりあうことです。意見はあまり一致したことがありません。