無人島あるいは孤島は、文学的想像力の行き着く先でありつづけてきた。デフォー『ロビンソン・クルーソー』(一七一九)を筆頭に、現代に至ってもミシェル・トゥルニエや、ウンベルト・エーコ、パトリック・シャモワゾーといった作家たちを惹きつけ、その作品群は「無人島小説」の系譜をなしている。海を渡る大冒険の末、孤島にたどりつき、島民に捕らえられながら、交流を果たす。この筋書きを見るに、本書は、現代日本にあらわれた無人島小説と言えるかもしれない。しかし、『孤島の飛来人』では、舞台を九〇年代の日本、そして北硫黄島に設定するなかで、西洋の無人島小説の典型が、微妙に変質させられていく。
語り手「僕」の勤務先は、経営危機からフランスの自動車会社の傘下に入ることが濃厚だ。「僕」のいる研究チームは、自らの存在価値をアピールすべく、勇み足で風船飛行に挑む。大役を担う「僕」は、六つの巨大な風船を背に、ビルの屋上から飛び立つが、上空で世界との一体感を感じたのも束の間、孤独と絶望に襲われる。その不安をなぞるように風船が割れ、降り立ったのは、目標の小笠原諸島・父島から大きく離れた無人島・北硫黄島だった。しかも、いないはずの島民に囲まれ、「僕」は牢に捕らえられてしまう。
孤島への漂着と、原地住民との邂逅。ここまでとっても、現代日本版ロビンソン物語という感じだが、竹槍ならぬトウキビ槍を携えて「僕」を捕らえる島民は、異邦の「未開人」では決してない。「僕」が彼らと交流し、それを記録するなかで、現在・過去の島民たちは、忘れ去られゆく日本の歴史の証人として立ち現れる。彼らは、日本の「内部」と「外部」のはざまで、硫黄島が経験した激戦の記憶とその島の歴史を語り始める。
本書がとりわけ興味深いのは、「書く」ことへの鋭い意識と、その相互性である。囚人となった「僕」は、牢のなかで業務日誌と称して看守の半生を記録していくが、実は看守の大木は漂着した日本人で、「僕」の先代の囚人だった。島の外部から来たはずの看守は、伝え聞いた歴史を「僕」に語り伝え、「僕」はそれを書き留めていく。そして、物語を読み進めていくと、意外な形で「僕」もその役割を引き継いでいき、さらに次の世代へと……。島の外部や内部、書くものと書かれるものといった対立は、脱構築され、たがいに循環していく。忘却に抗うように、伝え、書き残そうとする「僕」の業務日誌は、本書『孤島の飛来人』そのものと重なりあうかのようである。そのことによって、読者さえも相互性の一部となり、歴史の内部と外部のあわいで、慎ましく生きながらも、忘れ去られることに抵抗する彼らの証人のひとりとなるだろう。本書を読み、語ることは、彼らの生を引き継いでいく相互性のなかに参加していくことに他ならない。本を閉じたとき、不思議な感動と余韻とともに現れる風船を背に飛び立つひとりの飛来人の姿は、我々読者のことでもあるのだ。
★しんじょう・なおひろ=東京大学人文社会研究科修士2年。
専門は、フランス近現代文学、とりわけジュリアン・グラック。フランス文学における都市空間の表象や環境人文学に興味をもっている。